■ 80.「泥み恋情33」

LastUpdate:2009/07/19 初出:YURI-sis

 夜目が利くほうなのだろうか。隣を歩く久さんは違いなく美穂子の手を取って、固くそのまま握りしめてくれる。少しだけ感じ始めていた冬の寒さは、ただ久さんに手を握って頂くだけですぐに再び感じられなくなってしまった。
 温かな体温が、繋いだ手のひらを介して伝わってくる。手を繋いでいてもやっぱり慣れない路には時々つまづいたりもするけれど、こうして頼れる繋がった久さんの手があることは、それだけで何よりも美穂子の身体に熱くさせる喜びを与えてくれていた。

 

「そういえば、私のことも呼び捨てにしていいのよ?」
「久さんのことを、呼び捨てに……すみません、それはもう少し勇気が出来たら挑戦してみます」
「勇気って、そんなに難しいことかしら?」
「はい、私には簡単じゃないです。……実を言えば、名前でお呼びするだけでも緊張してしまいます」

 

 それは美穂子の本心だった。さっきから上埜さんのことを『久さん』とお呼びさせて頂く度に、心が大きく震えて緊張が走っているのだ。それなのに、さらに呼び捨てだなんて……そんなことをしてしまったら、緊張で心がどうにかなってしまうかもしれない。

 

「さん付けのほうが気楽なら勿論それで構わないけれど。……いつでも美穂子の好きな時から、私のことを呼び捨てにしても構わないからね?」
「……ありがとうございます」

 

 そうした言葉ひとつについても、久さんが掛けてくれる優しさが嬉しい。
(久)
 言葉に出しては言えない代わりに、美穂子は一度だけ心の中で愛しい名前を呼び捨てにしてみる。
 とても素敵なその名前は、心の中でさえ激しい緊張感と共に美穂子を揺さぶるのだった。