■ 90.「泥み恋情43」
     
  
 きっかけというものがあるとするなら、いつの間にか互いの顔を知っていたという程度のことだろうか。姿が派手というわけでなく、目立つような行動をしているわけでもないけれど、それでも――博麗神社で開かれる時折の宴、その中で名前も知らないあの人はとても目を引く存在だった。
     お酒を飲む為の場なのだから、誰しもが気を抜いてだらけた表情ばかりを見せている。椛の隣に座っている文様もそれは同じで、普段以上にしまりの無い顔をしながら水のようにお酒をがぶがぶと呷っている。それが当然の場なのだから、もちろんそのように飲むのは悪いことではなく許されたことであるのに。けれど……隣に座る文様以上に、気づけば椛の視線を奪ってしまっているあの人がお酒を飲む雅なお姿には、まるで僅かな隙さえも見あたらないようにさえ感じられた。
     背中をピンと張った正座姿で、優雅な振る舞いでちびちびとお酒を勧めるその格好に……もしかしたら椛は、いつしか興味に近いものさえ抱いてさえいたのかもしれなかった。
だからそのお姿と同じ姿格好の方を人里で見つけてしまった瞬間には、気づけば椛は「あっ」と声を上げてしまっていた。あちらも椛の顔を宴席で覚えてくれていたのだろうか、思わず声を上げてしまった椛を見て、何か納得したような表情で小さく頷いて応えてくれた。
「見た顔ですね。おそらく、博麗の宴会ででしょうか」
    「はい。私も宴席の折に、何度かお顔を拝見しておりました」
    「確か新聞屋の天狗といつも一緒に居たようにお見受けしますが。……あなたは彼女と違って、随分と礼儀正しいようですね」
    「そう、ですか? 別に普通だと思いますが」
    「……ふむ。無意識に敬語を喋れる妖怪は、この幻想郷では希少でさえあるように思いますよ」
 そう言って、口元を左手で隠しながら優雅にその人は笑ってみせる。……確かに、言われてみれば椛の周りでも言葉遣いが丁寧な人なんて数える程度にしか居なくて、それこそ妖怪の山ではあの巫女さんぐらいのものかもしれない。
     妖怪の山に存在する明確な上下社会。椛の敬語はその中で自然と身についたものであるけれど、この人の敬語は椛のそれとは全く別の次元のように思えた。
「私は白狼天狗の犬走椛といいます。失礼ですが、あなたは」
    「ああ、すみません先に名乗るべきでしたね。私は彼岸のほうで閻魔をしております、四季映姫と申します」
    「閻魔さま……ですか」
    「はい。なので私には、あまり関わらないほうが宜しいかと思いますが」
    「……? それは、どうしてですか?」
 映姫と名乗ったその人が、どうしてそんなことを言うのか。その理由が判らなくて椛は首を傾げながらその人を見つめ返してしまう。
     すると、その椛の反応が映姫さんにとっても意外なものだったのだろうか。驚かされたのは椛の方であるはずなのに、椛の表情を見確かめると当事者の椛以上に映姫さんは驚いた表情をしてみせた。
「あなたは、私を避けたいと思わないのですか?」
    「避ける、って。――どうして、そんなことをしなければならないのでしょう?」
 問い返せば、映姫さんの驚きようはより一層大きなものになる。
     けれどその理由が、椛にはどうしても判らない。
「失礼ながら、閻魔という役職がどういうものかご存じでないとか?」
    「……詳しくはないかもしれませんが、さすがに存じておりますが」
    「そ、そうですか。そうですよね。……ふむ」
 こくりと、頷きをひとつ。
     何かに納得したみたいに、映姫さんは先程までの凛々しい表情に戻られた。
「――裁きを恐れるは疚しき人ばかりなり。そういうことなのでしょうね」
    「えっと……どういうことなのか、私にはさっぱりなのですが……」
    「すみません、混乱させてしまいましたね。――ええと、椛さんと仰いましたか」
    「あ、はい」
    「この先に美味しい蜜豆を出すお店があるのですが、都合が宜しいようでしたら甘い物など如何ですか。私はいまとても気分が良くて、差し支えなければ奢らせて頂きたいのですが」
    「……は、はあ。喜んでご相伴に預かります、けれど」
 そう告げる映姫さんの表情は、確かに嬉しそうなものに見えて。
    (驚いたり喜んだり、忙しい人だなあ)
     椛は内心でそんなことを思う。
     それでも、立ち振る舞いからして魅力的な映姫さんの隣を歩ける幸運に酔いしれているうちに。椛はすぐ、そんなことも忘れてしまったけれど。