■ 117.「斯く熱めく - 04」

LastUpdate:2009/08/25 初出:YURI-sis

 確かな現実感が伴っている筈なのに、現状の総てが嘘みたいだと空は思わずにいられない。頬を抓れば夢から覚めてしまうのだろうか、と。そんなことも思うけれど、もしもこれが夢で覚めてしまったらと思うと怖くて、実行に移すことさえできやしない。
 例えこれが夢だというのなら、覚めたくない。怖い程の果報が、空の心に怯えにも似たものを思わせて、震わせる。――この世界で一番怖いことは、きっと不幸せそのものじゃなくて。幸せを、失うこと。一度は腕の中に抱き拉ぐことが許された幸せを、取り上げられることなのだと思えた。

 

「大丈夫です。夢ではありません、から」
「……あ、すみません」

 

 心が届いてしまっていることに気づかされて、空が思わず謝ってしまうと。
 ふるふるとさとり様は首を静かに左右に振ってから、空の頬に手のひらを添えてきて下さった。

 

「私も少しだけ、これが夢であったらと思うと怖いと思います。……でも、これが夢であるはずがない」
「どうして、ですか?」
「ふふっ、それはですね。夢の中の空と違って、本物のあなたが沢山迷ってくれているからです。私が毎晩夢に見る空は、いつも迷い無く私のことを口説いて求めてくれるのですが。……ですが、本物の空は違いますから。色んなことを考えて、迷って、躊躇って。そうした弱い心が、伝わってくるんです」
「……すみません。あまり器用ではないもので」
「あ、勘違いしないで下さいね。責めているわけではありませんし、それに……どちらかというと、嬉しいんです。こうして空と想いを通じ合えた今でも、私だって沢山のことを考えて、悩んでしまいます。明日からの未来を想うと、期待に震えそうになる心もありますし、不安に怯みそうになる心もあるんです。ですから――空が私と同じように、沢山のことを考えてくれるということ。それが、嬉しくない筈がないのです」

 

 そういえば、あまり深くは考えていなかったけれど。確かにさとり様の仰る通り、互いに想いを伝え合ってしまった以上、明日からはこれまで通りではいられなくなってしまうのだろうか。
 さとり様は他人の嘘を容易く察知することができるせいか、ご自身が嘘を吐くことを元々好まない性分でいらっしゃるし。空はといえば、考えていることがすぐに顔に出てしまうせいか嘘や隠し事が上手くできないものだから。お燐を初めとした、地霊殿のペット達に私達の関係がバレてしまうのは時間の問題のようにも思えた。
 今まで通りではない日常が、すぐにでもやってくる。確かにそれは酷く魅力的なことのように思える傍ら、小さくない不安を空の心に抱かせてくるけれど。
 ――それでも、空が強く抱いている、さとり様ともっと親密になりたいという想い自体は決して嘘にはならないし、嘘にしてしまうつもりもないのだから。自分が馬鹿だっていうのは判っているけれど……どうせ私には、未来を恐れて予めどうこうできるほどの器用さも学も無いのだから。

 

「失礼致します――」
「わ、わわっ!?」

 

 肩口の近くからさとり様の背中にそっと腕を回して、もう片方の腕で掬うように膝を抱え上げる。しっかりと持ち上げるつもりだったのに、さとり様の躰は信じられないぐらいに軽くて、意気込んだ空の力の半分も必要とせずに軽々と持ち上がってしまう。
 さとり様が望んで下さった、お姫様だっこの格好。当たり前だけれど、こんな格好で誰かを持ち上げるなんていうのは空にとって初めての経験で。実際に持ち上げてみて、思いの外に空の顔と近い高さにさとり様のお顔があって、少しだけ内心で戸惑ってもしまう。