■ 155.「泥み恋情55」

LastUpdate:2009/10/02 初出:YURI-sis

「モモ――」

 

 名前を呼ばれる度に、どきりとする。
 休み時間に沸き立つ三年の教室。その雑踏の中でも、先輩の声は誰よりはっきりと桃子の耳に届く。
 私がこれほど容易く心揺さぶられている事実を、先輩は少しでも知っているのだろうか。知っていていつも、私の名前を呼んで下さるのだろうか。だとしたら……少しだけ意地悪に思えて、けれどやっぱり桃子にとっては嬉しいことだった。
 先輩独自のイントネーションで綴られる私の徒名は、本名を呼ばれるよりずっと心の深い場所にまで食い込んできて揺さぶる。最愛の人に呼ばれるのだから当然と言えば当然で、幸せな酩酊にくらっと頭を揺らす都度に桃子はそれを手放せなくなる。

 

「……はい、先輩」
「ああ、なかなか返事がないので居ないのかと思った」
「いますよ。いつも先輩の傍に」

 

 私を呼ぶ声のひとつさえ、聞き逃したくない。
 だから私は先輩の傍を離れない。授業中は仕方ないけれど、そうでない間は拒まれない限りはできるだけ先輩の傍に居たいと思う。影が薄いお陰で三年生の教室にも苦もなく入れるのは便利で、放課後の部室に限らず休み時間の度に桃子は先輩の傍に居ることを選んでいた。
 初めはそんな桃子を先輩も窘めたものだけれど、いつしか自然に受け入れて下さるようになった。先輩には未だに桃子の存在が見えないことのほうが多いみたいだけれど、休み時間や放課後には桃子がいつも自分の傍に居るのだということを認めて下さるようになって、存在が感じられなくても桃子の名前を当然のように先輩は呼んで下さるのだ。

 

「しかし、いつ見てもモモの能力は見事だな。こうして三年の教室で話していても、誰一人気づきはしないのだから」
「そうっすね。昔は存在感のない自分が嫌いだったこともありますけれど……今は、ちょっと便利で手放せなくなってきている気がします」
「ふふ、確かに便利だな。これだけ人の目がある所でも大丈夫なのだから、いっそ私の部屋にこっそりモモを泊めたりしても、うちの誰も気づかなかったりしてな」
「あはは、そうかもしれないっすね」

 

 教室という閉鎖された世界は異物の混入に敏感なもの。それなのに、およそ四十人近くが犇めく先輩のクラスの中でさえ消失してしまう存在感の無さが桃子にはある。それに比べれば、先輩の家で身を隠す事なんてずっと容易いことでしかない。
 けれど、そこまで考えてから。先輩の言った言葉の意味に、桃子ははっとする。

 

「……え?」

 

 見つめれば、先輩の頬が林檎みたいに真っ赤で。
 つられて桃子まで恥ずかしくなってしまうそれは、何か新しい予感を感じさせてくれる気がした。