■ 177.「泥み恋情60」

LastUpdate:2009/10/24 初出:YURI-sis

 先程まで薬台の前で根を詰めていらっしゃったはずの師匠が、気づけば休憩していたソファーで静かな寝息を立てていらして。鈴仙は初めて目にした師匠のそうした無防備な姿に、驚きを抱かずにはいられなかった。
 研究に一度没頭されると何日と徹夜されることも珍しくなく、今もおそらく二日と寝てはいらっしゃらないように覚えている。それでも何日の徹夜を経ていようと師匠は他人にその辛さや弱みを見せられるような方ではなく、誰の前でもいつも通りに振るわれるのが常で。けれど、そんな師匠がいま薬座と研究室を兼ねたこの部屋のソファーで休憩の儘にうたたねなさるなど、鈴仙には一瞬信じられない想いのほうが強かったぐらいだ。
(……余程疲れが溜まっていらっしゃったのだろう)
 弱い姿を見せなくても、やはり徹夜を重ねれば師匠だって疲れるのだ、と。そんな当たり前のことを鈴仙は深々と思って。同時に、天才なのだからこれ程努力されなくてもいいのに、とも思ってしまう。
 いま根を詰めてやらなくても、ちゃんと睡眠は取られた方がいいのではないだろうか。いま頑張ってやらなくても、明日なさればよろしいのではないだろうか、と。――けれど、そう思う自分の心を鈴仙は告げたことがない。師匠の近くで薬学を学んで長い鈴仙ではあるけれど、まだ自分が『助手』としての役割さえ全うできていない現状が判っているだけに、意見など恐れ多くてできはしないのだ。
 華奢な躰に、白すぎる肌。長い睫と、細い指先。大人びた雰囲気を湛えていらっしゃるから誤解していたけれど、こうして眠っている師匠をまじまじと見つめてみると意外にもその体躯は鈴仙と殆ど変わらない程に少女のものであるのだなと実感する。そこには稚さのようなものさえ感じるし、胸の膨らみだってない。師匠のことを随分と大人だといつしか意識してしまっていた自分の感覚が、誤っていたのだと今更ながらに鈴仙は思った。

 

「………………私は、寝てたの?」

 

 師匠が眠っておられる姿を見てしまった時、鈴仙には先ず驚きの感情ばかりが先に立ったものであるけれど、それは師匠にとっても同じものであるらしかった。ふと目を覚まされた師匠が短時間だけ意識を失い、即ち眠っていたことにお気づきになると。先程はおそらく自分もそんな顔をしていしまっていたのだろう、深い驚きの色をその表情に湛えて見せられた。

 

「……少しお休みになっては」
「大丈夫よ。お陰で随分休めたみたいだから」

 

 そう言うと、師匠は元気一杯といった様子をアピールするみたいに。露骨な仕草で肩を廻しながら鈴仙の傍にまで近寄ってくる。

 

「うどんげ、作業中の薬品とかをどこかに移動した?」
「乳鉢でしたら辰砂を扱われている方は密閉して保冷のほうに、それ以外は薬座のほうに戻しておきました。薬瓶の類は殆どを棚の方に戻してありますが、ひとつ中身が判らなかったものについては触れずに残しております」
「……随分と頼りになるのね」

 

 普段なら嬉しいお褒めの言葉かもしれないけれど、これにはさすがに鈴仙も苦笑する。

 

「ふふ、片付けぐらいなら誰でもできますよ」
「片付けも決して簡単な物ではないのよ。扱っている物品を適正に判断して、適切な保存方法を取らなければ薬の状態を正しく維持することはできないものだから。――あなたも、気づかないうちに成長していたのね」
「……あまり自分ではそのような意識はないのですが。もしも私が成長しているのなら、それは師匠のお陰だと思いますよ」

 

 毎日師匠の傍に居て、毎日師匠の話を聞いて、毎日師匠の技を見ているのだから。
 実感は悲しいぐらいに無いけれど、自分が成長できているのなら、それは嬉しいことだ。

 

「眠ってしまっていた理由が、判るような気がするわ」
「はい?」
「きっとあなたが頼れる助手になったからなのね、うどんげ」

 

 師匠の言葉の意味が、実感を伴わない鈴仙には一瞬理解できなくて、その時には首を傾げてさえしまったものだけれど。
 後になって師匠の言葉の意味をようやく理解した鈴仙がそれから何日も歓喜に悶えたのは、少しでも憧れの師匠に近づけた意味を考えれば自然なことでさえあるのかもしれなかった。