■ 197.「請願い、希う」

LastUpdate:2009/11/13 初出:YURI-sis

 普段の優しい微笑みを絶やさない彼女の姿がまるで嘘であるみたいに、文の躰を押し倒してきたアリスさんの表情は真剣そのもので。柔和な笑顔に伴う穏やかな眼差しばかりを知っていたものだから、あまりにも怜悧で真っ直ぐな視線に心ごと射貫かれて文は身動きが取れなくなってしまった。
 アリスさんが私のことを特別だと想って下さっていることには何となく気づいていた。文の過剰意識だと恥ずかしいからアリスさんにその理由を訊ねたことこそ無いけれど。文に対してアリスさんが普段寄せて下さる優しい気遣いの数々や、宴席の度に気づけば二人いつも一緒に居て長い時間を過ごしてしまっていることなどを始めとして、そう意識してしまうだけの十分な理由のようなものが文にはあった。
 またアリスさんが抱いて下さっている特別な想いに漠然ながら気づいてからというもの、文もまた同様の想いを自分の裡に隠しながらも抱くようになっていた。だって――そんな理由からかは知らないけれど、こんなにも綺麗で優しい人が私のことを特別に想っていて下さるのだ。それが嬉しくない筈がどうしてあるだろうか。
 もちろんアリスさんの寄せて下さる『特別』な感情がどんなものか文は知らないから、文からまた急速に惹かれ返していく『特別』な意識をどこまで許していいものか困ったりもする。アリスさんが単純に文のことを『特別な友人』だと想っていて下さるのなら、文から寄せ返す感情もまた友達として分相応な親愛程度にしか許されないものであるだろうから。
 あれほど必要以上に惹かれてはいけないと強く自分の心を戒めてきても居たのに。……なのに文の心は止まることができなかった。アリスさんが自分に対して寄せて下さる想いの種別に関わらず、文はアリスさんのことを最大級に『特別』な人として意識することができなくなってしまっていたのだ。即ち――いつしか彼女のことを、愛さずには居られなくなっていた。
 だから、いまこうしてアリスさんにベッドに押し倒されたことに驚く感情こそ在りはするものの。それ以上に文の心には――こうして押し倒されたことでアリスさんが文に対して抱いて下さっている感情の種別が自分と同一のものであることをはっきりと確認することができたから――驚き以上に深い安堵の気持ちばかりが、心には止め処なく溢れてくるような気がした。

 

「……抵抗しないのなら、私はそれを肯定だと解釈してしまうわよ?」

 

 アリスさんの言葉に誘われて、期待に疼く心に文の躰はぴくりと一瞬だけ震える。
 抵抗なんてしない。――する筈がない。だって文の心にはアリスさんの言葉通りに、まさしく肯定の感情しか在りはしないのだから。
 自分の方からも気持ちを伝え返した方がいいのではないかと想うのだけれど、あまりに真剣なアリスさんの瞳に射竦められるあまり、意志に反して文の喉からは声のひとつさえ吐き出すことはできなくて。だからせめて、僅かにさえ抵抗の意志を示さないことでアリスさんに想いを伝え返す努力をするのが、文にとっては精一杯の答えだった。
 そうした文の気持ちが少しは通じたのだろうか。アリスさんはさらに少しだけ文の方に身を寄せると、その細い指先を文の顎に伸ばし触れさせてきて。恥ずかしさから逸らしてしまっていた文の視線を、アリスさんのほうへ直接向き直らせてしまう。
 僅かに数センチしか離れていない距離でアリスさんに見つめられ続けてしまうと、それだけで心はいまにもどうにかなってしまいそうなぐらいだった。そのうえ顎に添えられた指先にくいっと引き寄せるような力さえ加わってくると、当然アリスさんが求めて下さる行為も文には理解できるから。
 だから言葉として自分の気持ちを示すことができなくても、文は総ての気持ちをただ瞼を閉じて待ち受けることでアリスさんに伝えきることができた。アリスさんがキスを求めて下さるのなら、文にとってそれは無論歓迎すべきことでしかないから。瞳を閉じることぐらいには些かの躊躇もない。

 

「いいのね……?」

 

 アリスさんの言葉に文は思わず頷いて答えようとするのだけれど、それは顎に添えられた彼女の指先のせいで上手くはいかなくて。
 それでも頷こうとした文の仕草は指先を通じてアリスさんにも伝わった筈だから。あとはただ、アリスさんの柔らかな唇がゆっくり文の唇に重ねられてくるその過程と感触とに感じ入るだけで良かった。

 

「……んっ」

 

 キスの齎す官能に、思わず文の口元からは熱っぽい喘ぎが漏れる。
 誘い水を注ぎ込まれたように期待にばかり打ち震えていく心と躰は、じりじりと灼くような熱気を持ち始めて止まなくて。この後アリスさんに何をされてしまうのだろうと不安に揺れる心と、何をして頂けるのだろうと期待にばかり満ちていく相反した心が、けれど相俟って不思議とより強い期待感ばかりに生まれ変わっていく。
(夢じゃない、んですよね……?)
 あまりにも幻想的すぎる光景に、目が眩みそうにもなるけれど。
 この世界で誰より魅力的で誠実な彼女が、文を求めてくれている事実だけは。心の中でそう疑いながらも、絶対に夢や幻想でなど在りはしないことが文の心にもひしひしと理解できてしまっていた。