■ 第1章−八月「寂寥」
夏の雨は冷たくない。地面に叩きつける雨は、乾いた空気に滲んだ音だけを響かせる。
音までも冷たくない。からっぽの心に響いても、やがてそのまま無くなってしまう。夏の雨には心が無くて。私にも無くて。足しても引いても、何も残らない。
喉元まで熱い唾液が込み上げた。吐き気がする。押し留めては喉の奥にじんじんとした熱い痛みが込み上げて、目が霞んでくる。
だけど、泣けない。心はずっと泣いている。私も泣きたがっている。だけれども、泣くことができない。文字通り、枯れてしまったから。
もう何時間こうしているのだろう。服としての感覚までも雨の中に滲んで、自分が裸でいるようにすら錯覚してきてしまう。初めは延々と流れつづけるように思えた涙さえ、一時間も前には止まってしまった。あとは涙腺が刺激されるたびに、ただ鋭い痛みが響くだけ。それはとても小さな針のように深く刺さる痛みだったけれど、もちろん涙は流れない。
なんて季節はずれの雨。だけどこの雨が、私を消してくれる。薄汚い私を、この世界から遠ざけてくれる。
打楽器ような雨音はやがて、ノイズが耳に調和するかのようにもう聞こえなくなっていて、ただ音の無い世界だけが私の周りに広がっている。この音と同じように私自身も消えてしまえないだろうかと思う。だけど、それは叶うことの無い願いで、赦されない願いなのだ。
乃梨子が贖罪の生を選んでいるのなら、私もまた贖罪の生を選ばなければいけないのだ。消えることも死ぬことも、きっと今の私にはとても簡単。生きるのが一番辛くて、でも私は生きることを選び続けなければいけない。
考えることすら諦めてしまった。初めから答えが出せるような悩みでもなかった。
虚無だけがある心に感じられるのは、痛みだけ。痛みだけが、私の存在を知しめてくれる。
冷たい雨は溶かすように躰の中に染み渡ってくる。
あれからどれほどの夜が過ぎたのだろうか。
眠れない日が続いた。瞳を閉じても涙が溢れてきて、やがて流しすぎた涙に気持ち悪くなって嘔吐する。そんな日々が続いた。
奇しくも、眠ることはさして必要でもなくなってきていた。眠気はとても辛かったけれど、それも嘔吐感と頭痛にかき消されてやがてうやむやになってしまうし、限界になれば自然に意識は深い闇に落ちてしまう。日中も夜もどこにも出かけるつもりは無かったし、いつ意識を失ったからといって、特に困るわけでもなかった。
寧ろ気絶している間には何も考えずに、何にも嘖まれずにいられたから、幸せだったのかもしれない。それでも意識はいつか覚めてしまうし、枯れた筈の涙もまた溢れてくる。
目を閉じて、もう起きれなければいい。覚めない夢をずっと見ていられればいい。いつまでも悠久の夢に引き篭もって、降りしきる灰燼の中に埋もれていられたなら。
部屋の電話が鳴り響いても私は聞こえないふりをした。電話線を抜くまでも無い、私が望めばその音は世界から薄れていった。
数週間ぶりに部屋の外に出た。理由は特に無い。強いて言うなら、強い雨が降っていたからかもしれない。なんとなく、雨に打たれてみたかった。
もう半日はこうしているだろうか。寝間着は見るからにくしゃくしゃになってしまって、服としての役割を果たしてはいない。左手の指を見るとぶくぶくに膨れ上がっていて、感覚も無くなっていた。
ずっと空を見ていた。眼の中に雨が打ち付ける中で、日が天に昇り、曇り空を焼いて、落ち、やがて闇が閉ざしていく。それでも雨は止むことを知らない。
色んなことを考えて、色んなことをただ独りで呟いて。やがて、その呟きで胸が一杯になって、押しつぶされそうになって。
私は何をしているのだろう。
マリア様、私は何ゆえにこの地上に生を受けたのでしょうか。私は、意味が単純に存在できない人間なのです。濁り干上がってしまい、生まれた時にはあるいは持っていた総てのものは、失われてしまったのです。
赦されない罪に赦されるにはどうしたら良いのでしょうか。私には何もできず、贖罪の意味を翳してただ時が過ぎていくのに耐えていくことしかできないのでしょうか。そんなことで、この罪はほんの少しでも聚うことができるのでしょうか。
答えは、決して返って来ない。
マリア様は私に何も与えてはくれない。決して触れてきてはくれない。だから何も考えずに、盲目的に信じることができた。信じている間には、自分の祈りで自分を満たすことができたから。
私にとって、宗教とは誰かと共有するようなものでは無かった。何も考えずに信仰するのも、シスターになりたいという夢も、総て自分の為でしかない。私は誰かの為に祈れない、自己愛しか持てない信者なのだ。
私にとって「祈り」は何かを求める行為では無くて。
強いて言うならば「祈る」為に「祈る」。行動がそのまま目的で、私にとってそれ以外に何か意味を持つものでは無かった。私は初めからマリア様に何も望んでいないし、それ以前に本質的な部分ではその存在すら別にどうでもいいのかもしれない。
それでも今は教えて欲しい。答えを与えて欲しい。
私は一体。
「……志摩子さん」
けれど、祐巳さんの声に心動かされる私はもういない。
今の私はどこまでも伽藍堂としている。空疎な躰があるだけで、心はどこにも無い。
「風邪引くよ、志摩子さん」
無いはずなのに。
どうして、祐巳さんの声を聞くだけで、祐巳さんの存在を認めるだけで。
こんなにも暖かくなれてしまうのだろう。
「や……めて……」
肩が震えた。微かに漏らした呻き声。それが今の私にできる精一杯だった。
祐巳さんが肩幅の距離まで近づいて来る。私はそれでも祐巳さんの方を見ないようにした。
見てしまえば、きっと心まで揺れてしまう。
「志摩子さん……」
祐巳さんが私の肩に手を置く。
「触ら、ないでっ……!」
私はそれを振り返りながら左手で払う。パシッという乾いた音が、濡れた雨の中に響き渡り、私はそれだけで意識が立ち眩み、地に両の膝を付いてしまう。茶色に濁った水滴が顔に掛かるほど、激しく跳ね上がった。
多分、今まで全く動いていなかったからだろう。反動で躰が思うように動かない。
祐巳さんが、慌てて私の躰を抱きとめる。祐巳さんの温もりが彼女の制服の上からでも正確に伝わってきて、凍るような雨のせいで冷え切っていたはずの心は早鐘を打ったように熱くなってくる。
「お願い、触れないで」
私がそう哀願しても、祐巳さんは首を振る。
「できないよ……」
ぎゅっと私を抱きとめる手に力が加わった。抱きすくめられるように、私の自由は簡単に奪われてしまう。
「私は志摩子さんが本当に……」
「言わないで……!」
それを聞いてしまったらなら。私の中の自分への固い戒めが、きっと簡単に崩れてしまう。
「これでいいの……。乃梨子を追い詰めておきながら、私だけがのうのうと祐巳さんの手を握るなんて、絶対にできないのよ」
私が望んで、私を戒めた。私が望んで、私を苦しめる。
赦されることの無い罪ならば、せめて赦されること無く罰せられていたい。
私は、乃梨子を弄んだから。彼女の純粋な心を、どこまでも裏切ったから。だから。
「だけど、乃梨子さんは、そんなこときっと望んで無いんだからっ……!」
「……そうね」
それは事実に思えた。乃梨子はただの一度さえ、私を責めなかった。おそらく乃梨子が学園を去った理由も、乃梨子が此処にいることで、私が自分をいつまでも赦すことができないからだろう。
つまるところ、乃梨子を追い詰めたのは私なのだ。
「いっそ恨んでくれたり蔑んでくれたりしてくれれば、私も諦められたのに」
私はゆっくりと祐巳さんの手に触れ、それを解いた。
「なまじ諦めることができないから、祐巳さんへの憧憬は大きくなるばかりで」
触れられるほどに近くにあるから、諦められずにいる。いっそ祐巳さんに触れられる総てを閉ざされてさえしまえたなら、私も諦めることができるのかもしれないのに。
「抱いては、くれないの……?」
私の手はまだ祐巳さんの手を握っているけれど、私はそれ以上祐巳さんに近づくことが躊躇われた。私は、自分を赦せないから。
「祐巳さんは、とても暖かいの」
触れているとただ無条件に暖められる。
「だけど今は、それ以上に辛くなるわ。私の心はもうここにはないから」
とうに棄ててしまった。
「だから、もう来ないで。全部、忘れて。そのほうが、きっと祐巳さんも幸せだから」
祐巳さんが容赦なく見つめてくる視線が痛くて私は俯いた。嘘は言ってない。結局私はまだ、きっとこれからも、ずっと祐巳さんのことが好きだろうから。
だから、辛い。苦しい。
祐巳さんに触れるたびに、深い寂寥が私の心を包む。
それは、氷の粒に似ている。形も、存在も。あるいは、志摩子を責めたてるその総ての部分までもが。
叩けば壊れてしまうし、あるいは放っておいても、いつかは溶けて失われてしまうものなのかもしれない。
だけど、心の臓に食い破るように無数に埋もれた寂寥は、もう溶けることは無い。
無数の粒と粒とがくっつきあって、二度と離れることは無い。厚く蓋をして、もう心は外の空気を知らない。
その中には、たくさんの小さな小さな硝子の塵が無数に舞っている。
雪のように、あるいは嵐のように。寂寥の氷壁に隔たれた世界の中で、心に無数の小さな傷を付けていく。
ああ、そうなんだ。
私は途方も無く、ただ寂しいんだ。