■ 第2章−三月「白線」
春の日差しが風に揺れて優しい世界を創出する。春の空気は決して他の季節には無い、優しくて柔らかい彩りに溢れていて、この中にいるだけで気持ちは穏やかに、心は優しくなれるような気がしてくる。
荷物をひとまとめにして、適当な箱に詰める。単純作業でも苦にならないのは、そんな心地よさに包まれて、ふわふわとした感情に包まれるからだろうか。
ダンボールだらけの部屋。足の踏み場も無い、という表現はきっとこういう状態を示すものに違いない。私はどちらかといえば物に固執するほうではないし、あまり物を求めるということもしなければ、逆に捨てることに躊躇うほうでもなかった。だけど、書籍だけは捨てることができない。その多くは文庫本だから本棚に積んでいるうちは意識しなかったが、いざ棚から降ろしてみて圧倒されるその量の多いこと。ましてや、お父様の部屋に移っていた分も加えると(お父様は勝手に自分の部屋まで本を借りていっては、返さないという悪癖がある)自分の衣類や寝具よりも沢山の箱をしめているのが現状だった。
書籍を箱に詰めるのは衣類を箱に詰めるのよりもよっぽど簡単だったから、その作業自体はさして苦にはならないのだけれど、閉じたダンボール箱の重さには辟易させられる。あまり実感はわかないけれど、私のような年齢での引越し、それも女性であれば尚更のこと、衣類の整理や処分に苦悩するのが普通なのではないかと思う。
本を読むことが男性の特権だなんて思わないけれど、あまり女子高生の部屋には見えないなと、少しだけ我ながら呆れてしまいそうになる。本の量の多さもそうなのだけれど、それ以外の極端な荷物の少なさは何なのだろうか。衣類は学校の制服類と他に私服がオールシーズン合わせて僅か七着。服飾の美的センスの鋭い由乃さんが聞いたらどう思うだろうか。今度、乃梨子に連れ添って貰って服を買いに行くのもいい。あまり連れたって出かけるということを私たちはしない。既に一線を超えた今でさえ、理由が無ければあまりどちらからも誘うことができない、そういう関係なのだ。今から計画を想像するのは心が躍ることでもある。私自身、それはとても楽しみなことに思えた。
「書籍のダンボールは、十一個?」
後ろから声を掛けられる。うちの寺に住み込みで修行されている立川信吾さん。本来なら日々の務め(といっても、私は自分の寺で修行僧の方が日々、どのようなことをされて過ごしておられるのか、あまり詳しく知っているわけではないのだけれど)がある中、私の引越しという私事を手伝って下さっている。
「すみません、わざわざお手伝い頂いて」
頭を下げた私に、呵呵と笑いながら頭を叩きながら信吾さんは答えた。
「いや、いいんですよ。それが住職の望みでもありますし、こういうのは力があり余ってる人間がやるのが一番効率がいいんですよ!」
できることなら自分の力で総てやりたかった。しかし、家具の大半と書籍を封じた箱。それらは総て私にとって「重い」どころのレベルではなく、純粋に持ち上げることができない物で、どうしようも無かった。仕方が無いので父親に相談したところ、翌日……つまり今日派遣されてきたのが信吾さんである。
「そう言って頂けると助かります」
湧き上がる感謝の気持ちにつられて、思わずまた頭を下げる。
父親の性格に感化されてかどうかは知らないが、私の家である「小寓寺」に住み込みで務められていらっしゃる方は、皆快活で気前が良い。日々の生活の中でお話をしていても楽しい気持ちにさせられる。私はこの家に生まれたことを感謝しなかった日は無かった。
ここはとても居心地の良い場所で。……だけど、人に包まれていても溢れる孤独を知ってしまったから。だから、家を出ることにした。孤独を満たしてくれる、たったひとりを求めて。
うんと力を込めても片側しか持ち上がらず、傾けるのが精一杯だったダンボール箱。引越会社の方が見積もりの際に置いて行かれた一番大きいサイズのダンボール箱でも、信吾さんが力を入れるといとも軽々と持ち上がってしまう。それを見るたびに私は、思わず力一杯の拍手を送りたい気分に駆られてしまう。
信吾さんが一つダンボールを部屋の外に運び出すたびに、部屋が確実に広く感じられていった。同時に、ここが本当に私が今までずっと住んできた部屋なのか、それを確かめる自分の心への疑問符も増えていった。やがてあらかたの箱が運び出されてしまうと、その部屋の記憶から、完全に私が消え去ったような錯覚さえ覚えた。
『なぜ家を出る必要があるのか?』
私が家を出る決心をして相談した時の、そう聞き返したお父様の疑問はもっともだった。私はそれに上手く答えることができなかった。
ここに住み続けられない理由。それはきっと心の中でも最も深刻な場所にある。お父様やお母様、そして寺に住まうあらゆる方。そういった方とお話するのは楽しいことだし、それだけで幸せな気分になれることだった。
だけど私は、それでは満たせない心もあることを知ってしまった。だから、家を出る必要があった。
私の寂寥は、乃梨子にしか満たすことはできない魔法が掛かっている。毎日毎日少しずつ溢れ出ては鬱積される寂寥に悩まされていた私を、乃梨子は簡単に払拭してくれた。孤独の中にいることは苦痛ではないが、寂寥に苛まれつづけるのはとても哀しくて、辛いことだ。初めて乃梨子の躰に触れた日のことを今でも私は覚えている。
恍惚とした気分の中で、どうしようもない充足感。どこまでも果てしなく満たされていく私を自覚した時、私は乃梨子無しでは生きられないのだと悟った。思い出してみれば、寂寥に悩まされ始めたのは乃梨子に会ったその日からのこと。心に付き纏う寂寥の正体はとても単純な気持ちで、乃梨子への好意だったのだ。乃梨子を単純に独占したいという心。それが灰燼のように少しずつ降り積もっていくのは当然のことで、乃梨子がそれを簡単に心から取り除くことができるのもまた、当たり前のことなのだ。
密やかに何度かこの部屋で乃梨子を抱いたこともある。乃梨子の指先に酩酊する中での私自身の痴態を思い、意識はどこか手の届かないところに遠ざけられてしまう。理性から離れた世界で、ただ必死に声を押し留めようとしながらも、か細く泣き喘ぐ私の躰があった。
静かに灯りを落として部屋を出る。薄闇に包まれた部屋は、私の心に懐かしさを伝えては来ない。きっともう、私をこの部屋の住人として認めてくれていないのだろう。そこにあるのはもう、私の世界ではないのだ。
未練無く引き戸を締めた。心のどこかでも、あるいは記憶のどこかでも、同時に幾つかの扉が音を立てて閉じられ、鍵を掛けられた気がした。それはきっと、私自身が望んだことなのだ。
居間に向けて歩き出す。お父様とお母様にお礼の言葉と、そしてささやかなお別れの言葉。
胸中はこれからの新しい生活と、そして乃梨子のこと。その煌きを見つめるだけで時間を忘れそうになるぐらいの、暖かい期待に溢れていた。