■ 第6章−七月「壊すことしか」
『プルルルル…、プルルルル…』
きっちり七回コールを鳴らした後、私は諦めて携帯のボタンを押し、通話を切った。明らかに避けられている。
乃梨子は電話にはすぐに出るほうで、極端な場合には1コールもしないうちに電話を取る癖があった。彼女も携帯電話だから、おそらく着信に気づいていないというわけではない。履歴で私から電話がある事実は気づいている筈だし、もし避けられていないのであれば乃梨子の側から掛けなおしてくるだろう。
七月の中旬に入る頃から、乃梨子は突然学校に来なくなった。病欠との連絡は担任に入っていたから、私も始めは乃梨子の体調こそ気になっても、それ以外の懸念は特にしていなかった。結局乃梨子はそのまま十日程度を欠席し続け、そのまま学校生活は夏休みを迎えた。
山百合会も夏休みの半ばを終える頃までは、しばらくお休みになる。後の行事が詰まっているから夏休み全てがお休みというわけには行かないのだけれど、私達にも夏休みはやっぱり必要だし、折角の休みには羽根を伸ばしたいのだ。
夏休みに入る前から乃梨子の携帯に何度も電話をし、夏休みに入ってからも毎日二回は欠かさず電話を掛けるようにしていた。メールも今までに何通も送ってみた。しかし、返事は全く返ってこなかった。
乃梨子のクラスの担任から頂戴した乃梨子の家の電話番号があるけれど、それに掛けるのは躊躇われた。おそらく、避けられているのは私個人の問題なのだ。心当たりはある。だから、乃梨子が私を避けるというのなら、それを越えてまで乃梨子を追い詰めることはしたくなかった。それに、乃梨子が避けるのも当然に思えた。
私は、これ以上無い方法で、裏切ったのだから。
胸の奥の側に固い痼りのようにある感情。私は初めて、それが自分を軽蔑する感情だと知った。
「ごきげんよう」
私はいつものように薔薇の館の扉を開ける。
「ごきげんよう、お姉さま」
信じられないものを見たかのように、私は錯覚する。そこにいるのは、紛う方無き、乃梨子だった。
乃梨子は何事も無いかのように、まるで何ヶ月か前の姿がそこに自然に在るかのように、お茶を入れてくる。
「どうぞ」
なんて言いながら差し出すものだから、私はただ困惑してしまう。てっきり乃梨子には避けられているものだとばかり思っていたのだけれど。
「……ありがとう」
差し出された以上は受け取らねばならない。
久しぶりに飲んだ乃梨子が入れてくれた紅茶は、普段よりも幾分か甘さを感じなかった。
「今日は皆様、いらっしゃいませんよ」
「あら、どうしたの?」
「私が来ないで頂くように連絡しましたから。お姉さまと、ちょっと話したいことがあるから、って」
「ああ……」
やっぱり、現実なのだ。一瞬、この数ヶ月間が、総て偽りのものであれば良いと思ってしまった。だけどそれらは総て、真実なのだ。
もう一度紅茶に口を付けてみる。もう味なんて、全く解らない。
「何か先に言いたいことがあれば、聞きますけど」
乃梨子が向かいの席で眼を瞑りながらそう言った。
私はと言えば、こんな展開全く予想していなかっただけに、思わずどう言えば、どう言い出せば良いか解らなくなる。
「……ごめんなさい」
結局、私が吐き出した言葉はそれだけだった。
乃梨子は小さく笑いながら、
「志摩子さんらしい、答えですね」
と言って、くすりと声を漏らした。
体がバランスを崩して転倒させられる。乃梨子が倒れた私の体を、馬乗りになるように押さえつけた。力の限り抵抗すればあるいは抜け出せるかもしれないけれど、それでは乃梨子に怪我をさせてしまうかもしれない。
乃梨子の手でタイが乱暴に解かれ、ワンピース制服の袖口が手早くほどかれる。
「……声を上げるわよ」
乃梨子に私は抵抗とも脅迫とも取れる言葉を投げる。
いくら夏休み中の校舎とはいえ、警備の方は巡回している筈だし、教師の方も少数は来校していらっしゃる。
声を上げればあるいは、偶然通りかかる人が気づいてくれるかもしれない。
「いいよ、志摩子さんがそうしたいなら」
なのに乃梨子は、にべも無くそれを赦した。
「警備の人が来たらどうなるかな。志摩子さんは被害者だから何もならないだろうけど、私はきっと退学かな」
「そんな……」
呼べるはずが無い。声を上げられるはずが無い。
これだけ乃梨子を追い詰めておいて、そして学校からまで追い出すのか。その居場所まで私は奪うのか。
できない。
「……抵抗しないの?」
ワンピースの制服は片方の肩袖を抜く形で無理やりにたくし上げられ、私の姿はほとんど下着姿でありながら、ぎこちない拘束のままに、床に転がされる。夏場なのに薔薇の館の床は異常なほど冷たく感じて、躰が震えた。
「乃梨子が、それを望むなら」
乃梨子が本当にそれを望むのなら、何をされても良いと思えた。元々幾度となく躰を交わした乃梨子にだから、何をされても良いと思った。それで乃梨子の気が済むのなら、それで乃梨子に少しでも償うことが出来るのなら。
私は何をされても構わないし、何をされても仕方が無いと思えた。
だから、心から乃梨子の総てを簡単に赦せてしまう。
「志摩子さんは、いつもそうっ……!」
乃梨子の眼から、小さく冷えた雫が私の頬に零れた。
「私がどんなに求めても、決して返してはくれなくて。私がどんなに欲しがっても、ちっとも近づけなくて」
涙に混じって乃梨子の声が掠れてくる。
「私は、いつも乃梨子を傷つけていたのね」
「違う! 私が勝手に傷ついていただけだから……」
何も違わない。私が乃梨子を傷つけていたのだ。
いつも乃梨子に甘えて、乃梨子に依存して。
そして、乃梨子を裏切って。
私はなんて身勝手な人間なのだろう。乃梨子はこんなにも私のことを思っていてくれたのに、私はその感情を平気で切り捨てられるのだ。なんて、冷徹で、酷くて。そして独善的な人間だろう。
乃梨子が私を恨むのは当然だし、乃梨子が私に復讐を求めてくるのも当然だ。こんなにも汚い、人間を、赦すことなどできるものか。
「ごめんなさい、乃梨子……」
気づけば私の眼からも涙が流れていた。だけどきっと、この涙は、乃梨子の流した涙のように、純粋で、綺麗な色はしていないと思う。黒く澱んでいるだろう。
「私のことをもっと罵っていいのよ。乃梨子は私に何も言わなかった。私はずっと乃梨子を傷つけていたのに、乃梨子は私を一度も責めなかった。ただの、一度も」
「……言って欲しかったように聞こえるけど?」
「そうね、言って欲しかったわ。だけど、言えなくさせていたのも、やっぱり私なのね。私がずっと、乃梨子を苦しめていたのね。……ごめんなさい」
私は総ての躰を乃梨子に赦した。躰はただ、乃梨子の動きに翻弄されるだけの鈍色の人形になる。
乃梨子の指が私の敏感な部分を締め付けるように愛撫してくる。その乱暴な動きに、私は少しの快楽と過剰な痛みに流されながら、それ以上に深い深い寂寥の海に、どこまでも無尽蔵に沈んでいく。
無意識のさなかに、抱きしめた乃梨子の躰。
――痩せたな、と思った。