■ 第7章−八月「失うだけの美学」
「どうして呼び出されたのか、わかる?」
咎めようとする口調ではない。優しい笑みをたたえながら、シスターは問い掛けた。私はただそれに頷くことで肯定の意思を示す。
乃梨子のこと以外、何があるだろう。
八月も終わりが近い、ある一日。普段より二時間だけ早く起きての学園長室。
シスター山村は決して私を責めない。責めないだけに、かえって私にはそれが堪えた。自分自身で自分の罪を理解できている時には、責めてくれたり詰ってくれるぐらいのほうが、よっぽどマシに思える。
『二週間も前に、乃梨子が転校していた』
その事実は氷の刃となって私の心を切り裂いた。
学園長室の扉を閉めた直後、電話を掛けようと思って携帯を取り出すものの、そこで動きが止まってしまう。
――電話を掛ける?
――誰に。
乃梨子はきっと、私にこれ以上無い軽蔑を抱きながら去っていったに違いないのに。乃梨子に電話を掛ける、その行為になんの意味があるのだ。電話を掛けよう、と思い立つことさえも私が自己満足の為にやろうとしているだけにすぎないのだ。それが乃梨子を傷つけたのではないだろうか。だとしたら、電話を掛けることは乃梨子にしてみれば迷惑以外の何物でもない。
濃紺色の携帯電話。思えば、乃梨子に何度もせがまれてようやく持ち始めたもので、私自身はあまり「電話を持ち歩く」ということには好感が持てずにいた。なのに、持っていなかった頃には心の中であるいは否定してすらいたそれは、今ではもう手放すことはできない。
――乃梨子も同じだ。
吐き気がした。感覚が朦朧とした。
乃梨子には、もう何も届かない。何も、謝れない。
乃梨子をもう、抱きしめることはできないのか。
「……志摩子さんっ」
「祐巳さん……」
気が付けばすぐ傍にいた祐巳さんの姿も、溢れた涙と霞んだ意識で、どこかぼやけてしか確認できなかった。
「私のせいで、乃梨子が……あああああっ!」
私は、泣いた。喚くように、泣いた。
祐巳さんの胸の中で、ただ子供が泣くことしかできないかのように、ただひたすら泣きじゃくった。
――どうして、どうして乃梨子。
――私が、私が全部悪かった。
――ごめんなさい。本当にごめんなさい。
――お願いだから、赦して。
――謝るから。乃梨子が赦してくれるまで、謝るから。
――赦して。
「志摩子さん、元気だして……」
祐巳さんが、ハンカチで私の涙を拭う。簡単に水びたしにハンカチはなってしまって、とめどなく溢れてくる涙は拭いても拭いても湧き出てくる。
「乃梨子ちゃんから、伝言があるの」
そういって、祐巳さんが小さな紙片を差し出す。そこには、確かに乃梨子の字で、走り書きが残されていた。
『ごめんなさい』
『どうか、自分を責めないで』
「ああっ……!」
どうして。どうして。こんなことを言うのだ。これが責めずにいられるものか。乃梨子を苦しめたのは、私。乃梨子を追い詰めたのも、私。赦されるものか。私が、赦されてなるものか……!
あるいは、私を赦してくれるのなら。どうして、急にいなくなったりするのだ! 乃梨子が居なければ、謝ることもできない! 赦してもらうこともできない!
どうして、勝手にいなくなったり、するの……。
どうして、私を置いていくの……。
……違う。乃梨子は悪くない。悪いのは、私。私一人なんだ。乃梨子は、ちっとも悪くない。
私が、全部、悪い。
私が、乃梨子を、傷つけたから。
祐巳さんが必死に声を掛けていくのが、遠のいていく意識の中で、僅かに聞こえた。だけど私は、耳を閉じてそれに聞こえない振りをした。
――しんしんと、しんしんと。
雪が降っている。私の中に、雪が降りはじめる。
硝子の雪。それは本物よりもよほど綺麗な雪のように心の中に降りしきり、心は小さな傷で満たされていく。
血が溢れる。それに痛い。
だけど、きっと乃梨子はもっと泣いたんだ。
きっと乃梨子はもっと痛かったんだ。
しんしんと、しんしんと。
綺麗な雪が、私の心をズタズタに引き裂いていく。
目が覚めた。校舎にはもう、日が落ちていた。
何時間眠っていたのだろうか。廊下の片隅で、座り込みながら意識を失ってしまっていたらしい。
横には、祐巳さんの寝顔もあった。眼の下辺りには、泣いた痕もあった。私の為に泣いてくれたのか。
肩を触れ合わせていた重心を、祐巳さんひとりで座り掛かれるように調整する。祐巳さんの躰は、思ったよりも軽かった。
乃梨子が残してくれた紙片を取り出し、何も書かれていない裏面側に、ポケットからボールペンを取り出して手早く書き綴る。
本当は毛布の一つも掛けてあげたい所なのだけれど。
ここで祐巳さんに起きられてしまえば。目を合わせてしまったなら、言えなくなってしまうような気がする。
仕方が無いので、紙片だけを祐巳さんの傍に放置し、私はそのまま祐巳さんの元を去ることにした。
――さようなら、祐巳さん。
私は、祐巳さんが大好きでした。この感情に、偽りはありません。祐巳さんを、愛していました。
けれど、もうお別れです。
『私には、祐巳さんを愛する資格がありません。
だから、もう私に触れないで。
私は最低な人間です。このままだときっと、
祐巳さんのことも、傷つけてしまうから。
だから、お別れです。
祐巳さんのことが、本当に大好きでした』