■ 第8章−九月「耳鳴り」
たとえば、窓を叩く雨音。
ザーという音は深いノイズに変わって、私の脳に響いてくる。それは痛みに変わり、やがて雨音だと解らなくなる。右の耳から左の耳へ、左の耳から右の耳へ、二つの耳の間を行き交いして、やがて音が鳴っているという事実さえ、私は解らなくなる。
たとえば、虫の鳴く声。
何の虫かも解らない鳴き声が、もう終わる夏を哀しむように奏される。子供の泣き声のように痛くて、子供の笑い声のように哀しくて、私が今抱いている感情が、どんなものだったかさえ解らなくなる。もしかしたらその必要も、無いのかもしれない。
たとえば、音の無い音。
キーン、という無音の音が部屋にただ響く。その音は耳鳴りのように、ただ脳の中で響きつづける。
キーン、キーン、キーン、キーン。
脳は、耳鳴りだけで埋め尽くされていく。
音の無い世界が、音で塗りつぶされていく。
光の無い世界が、闇で埋め尽くされていく。
意味の無い世界が、無意味に侵されていく。
伽藍堂の世界が、空虚で満たされていく。
感動の無い世界が、寂寥で溢れてくる。
それは総て、同じことなのに。
ただ、無為に時が過ぎていく。
何日過ぎたかはわからない。
具体的には何もわからない。知りたいとも思わない。
――マリア様。
私は、何の為に生まれたのでしょうか。
人を傷つけるだけの人間に、果たして生きている価値などあるのでしょうか。私は、生きていることを赦される程の、人間では無いのではないでしょうか。
なんて、マリア様に祈ってみたりするのは、虫のいい話だとも思ってしまう。
私は、神様を信じていないから。
どこででもマリア様に祈ることはできる。
膝を突きながら、マリア様にただ祈る。しかし、雑念こそ浮かばないものの、心の中は見事に空っぽで、虚無だけが私の心を支配していった。
何も考えていない虚無の中。哀しさ。寂寥。それだけが私の薄い意識に確認できた。暑さも過ぎ、涼しさも増してきていて、ちょうど心地よい温度に埋まった部屋の中にいるのに、意味も無く痙攣が激しくなってくる。痺れが全身に及び、歯痒さが精神を苛んでいく。
祈りつづけること。祈るという行為に意味があった。
祈っている間は、何も考えずにいられる。
同時に、祈る、という行為そのものに、不思議と満たされることができる。
神様がいるかなんて、全くどうでもよいことなのだ。
私はただ、祈ることができれば良い。
天啓など、聞こえたことも無い。
そもそも、天啓なんて存在を信じてなどいない。
それだけではない。啓示はおろか、神の寵愛も、輝きも、存在も、私は何ひとつ信じていない。
たまに、宗教に触れてくる人は皆、何を想い「祈る」のだろうと思う。
カトリックも仏教でも同じことで、その点はいつでも私にとって疑問でしか無かった。
ただ、ひとつだけ自信を持って言えること。それは、皆自分の為に、自分の何かを維持する為に、「祈る」という行為を繰り返しているのだ、ということ。
私のように「祈る」という行為そのものに、何かを求めようとするのは、なかなか少ない例だろう。
殆どの人は、祈ることで神と奉られる何かに、他力本願的に「救い」を求めるのだろう。
自分でどうしようもないから。あるいは、面倒だったり、苦痛を伴ったり、労力を伴ったりするそれを、神に祈ることで「救い」を求めたりする。
寺の娘が思うにあるまじきことだと自戒はしているのだけれど、私はそれを見て(寂しい人だ)と思ってしまう。そういう人が藁にもすがる思いで、寺を訪れることは少なくなかった。
「救い」は、そんなに皆が求めてやまないものなのだろうか。
「救い」が、誰にでも不偏に与えられるものだとするなら。私には、それが欲しくない、とも思えてしまう。
救いなんていらない。
私はただ、いつまでも、罰せられていたいだけなのだ。
贖罪では無い。ただ、誰も私を責めてくれないから。
私の傍に居てくれる人は、みんな無条件に優しい。
乃梨子も。祐巳さんも。お姉さまも。由乃さんも。蔦子さんも。令さまも。祥子さまも。
みんな、優しすぎるのだ。
私は、とても重い罪を犯しました。
それは、誰に蔑まれても、仕方の無い過ちでした。
なのに。
きっと、皆私を赦してしまう。
優しいから。私のこの擦り切れた卑しさも、澱み濁った心黒さも。総て赦されてしまう。
辛い。
もっと、蔑んでくれたなら。詰ってくれたなら。力で捌けてくれたなら。罪を迫ってくれたなら。
そうしてくれたなら、どれだけ楽だろうか。
私の願いがあるとするなら、それは簡単な夢だ。総ての私に触れてくる人に、私の今まで犯してきた罪を苛んで欲しい。決して、赦さないで欲しい。
もう、誰にも会いたくはなかった。
会えば皆、私を赦してしまう。
私は、赦されたくない。
きっと全部、諦められる。