■ 第9章−十月「裂傷」
秋には音を吸収する魔力があるのではないかと思ってしまう。車が走る音が僅かに窓を越えて聞こえて、時計の針が刻むそれ以外には、シンと静まり返った空間が、ただそこに悠然と存在している。
あと何回の夜を、こうして過ごせば良いのだろう。
爪の先が与える痛みに、だけど志摩子の躰と心は酔いしれる。痛みにか、それとも痛みに隠された裡にある快感にか。惚けて白い霞が広がり、志摩子の頭は何も考えることができなくなる。必要も無くなる。熱い液を滲ませて、醜態だけを晒す自分が居る。
何を想うこともなく、ひたすら自分の躰が震える程に欲する刺激だけ、ただ自分の望むままに自らの躰に与え続ける。
それは、とても寂しいことだ。
事実、志摩子は指を走らせれば走らせるほど、思考や理性をそれによって生じた感情でうやむやにすればするほどに、より深く寂寥を傍に感じてしまう事実に気づかされていた。しかし、だからといって一度走らせた指は簡単に止めることはできない。志摩子がそう、望んでいるからだ。
思考としてではない、本能的というか、本質的な部分の自分の欲望を見せ付けられるたびに、志摩子はとても惨めな気分にさせられる。
自分は、なんと欲深い人間だろう。
一度それに溺れてしまえば、周りも見えず、意思力も働かない。理性はとうに失われて、ただ自分の本質的な心が求めたがるままに、欲望のままに、それをいつまでも求め続けるのだ。
それは例えば、いま志摩子が自分に与えている性的な欲求であったりする。一度手を忙しく動かせば、もうその指先の動きは幾度となく達するまで決して止めることは出来ない。躰が果てなく疼き、精神は空っぽのままにただ快感だけを求め続ける、猿のような生き物になる。
あるいは、乃梨子のこと。乃梨子を最終的に傷つけてしまうと知っていながら、それでも乃梨子の存在を離すことを決してしなかった。それはあるいは性的な欲求と同様に、乃梨子の躰を求めて疼く自分の卑しい心だったり、あるいは逆に乃梨子という志摩子が完全に依存することを赦していた拠り所を失うことへの恐怖からくる、幼い子供のようにただ失うことに怯えるだけの脆弱な心だったりもする。
そして、祐巳さんのこと。乃梨子という存在を自分の欲望のままに繋ぎとめておきながら、その資格すらも無いというのに、祐巳さんの心も躰も、ただ志摩子の持つ深い欲求のままに求めること。それもやはり乃梨子と同じで、傷つけてしまうことが解っているのに。
乃梨子も、祐巳さんも、同じことなのだ。
結局そこにあるのは、志摩子がどこまでも独善的な人間でしか無いという事実に過ぎない。志摩子がどんなにも、卑小で、傲慢で、浅ましい人間でしかない。その事実だけが本当に総てなのだ。
乃梨子も、祐巳さんも、本当に良い人なのに。
そんな二人さえ、平気で傷つけるられるのか。
吐き気がする。
自分をどんなにも、蔑んでやりたい気分だった。
簡単なことじゃないか。私なんて、価値の無い人間なのだ。乃梨子も、祐巳さんも、私の表面に騙されているにすぎなくて。私の本性を知ってしまったなら、きっととても冷たい視線で睨みながら、私の元を去っていくに違いないのだ。
実際、乃梨子は離れていった。私が与えた哀しみは、ささやかな復讐で納得できるような、そんなちっぽけな痛みでは無かったろうに。ただただ、乃梨子には申し訳無いと思った。
総ての原因は私の弱さと意地汚さにある。
哀しみや後悔は抱えきれないぐらいに溢れているけれど、志摩子の欲望はそれによって押し留められることなく際限なく助長していく。
「はあああっ……!」
指の与える魔力に、簡単に屈しそうになる。責めているのは志摩子で、責められているのも志摩子自身。その筈なのに、責め手としての志摩子の感覚はどこか他人顔をしている。屈する感覚だけが志摩子の裡で麻薬のように拡散して、思考は溶けるようにふにゃふにゃにされてしまう。
「……あっ! ああぁあっ!」
容赦の無い指の動きと爪の痛みの即興曲に、壊れた人形のように躰は幾度となく踊らされる。志摩子の膣は熱病のように濡れそぼり、意識は徹夜明けのように惚けている。しかし、躰中に広がった神経は研ぎ澄まされたように敏感で、外部から与えられる総ての刺激に志摩子の躰はただ狂わされる。
「はあっ……! はあああああっ……!」
最後は呆気なかった。しかし、志摩子の指先は絶頂に達した自分を赦すこともせず、絶え間なく志摩子の敏感な部分を未だに刺激し続ける。
絶頂を迎えたことで弛緩した躰が悲鳴の声を上げる。そしてなにより、意識が警鐘を鳴らす。しかし、志摩子はそれに耳を貸さない。ただただ、どこまでも志摩子の躰を蝕むように責め続ける。
絶頂を迎えることは、自慰の終わりでは無い。
自分を慰めるということが精神的な意味を持つならば、乃梨子が志摩子を責めようとしたこと、それを再現することが、今の志摩子にできる唯一の贖罪に思えた。
つまり、志摩子にとって自慰とは、自分をオルガニズムに導くことは過程であり目的ではなかったのだ。赦すことなく快感と寂寥の中にどこまでも貶めること。
何故、こんなことをするのか。
答えは簡単だ。
乃梨子はただ、志摩子に性的な痛みでもって復讐しようとしたから。
だから、志摩子が性的な痛みによって、志摩子自身の性器を傷つけ、自分を苦しめること。苦しめ続けること。
それが、唯一の乃梨子に対してできる、贖罪では無いかと思えたのだ。
他人顔をしている責め手としての志摩子。それは、他人顔をしているのが一番望ましいからだ。認識側としての志摩子はただ、罪を犯した罪人として、罰を与えられる罪人として、屈服させられる側であれば良いのだ。
だから、志摩子は決して自分を赦さない。赦すこと無く自分の躰を傷つけ続けること。それが、志摩子自身の望みなのだ。
意識はどんどん薄れていく。
だけど、痛みと快感だけは、途方も無く溢れる。
頭は何も考えられなくなる。
躰は弛緩を赦されず、刺激にただ喘ぎ続ける。
乃梨子、ごめんなさい。
乃梨子、ごめんなさい。
乃梨子、本当にごめんなさい――。
だけど志摩子は謝罪を認めない。罪を赦さない。
あるいは、この責めは志摩子の望むものかもしれない。
こうしている間にだけ、志摩子の精神を奥底から冷たくする総ての感情を忘れ去ることができた。寥寥とした荒野に、快感の波に。深い酩酊の底に鎮まっていられる間だけは、何にも捕らわれることなくいられた。
快感に打ち震える躰。それを赦さない自分。
冷たい眼差し。蔑む視線。こんなにも愚かで浅ましい痴態を、ただ遠くから志摩子だけが見ていた。