■ 第12章−十二月「硝子の雪」

LastUpdate:2004/06/22 初出:硝子の雪(同人誌)

 十二月二十四日。クリスマスイヴ。
 イルミネーションに彩られた街並み。
 大好きな人を待つ時間。
 冷えた夜風が渡り、賑わう街並みの熱気を払う。
 けれど、寒空の中で吹き付ける風に身を縮めながらも、決して冷めることを知らない私の裡の熱情。
 雪が、硝子の塵のように、降る。容赦なく降りそそぐそれは、行き交う人々の肩を狭めさせた。闇に閉ざされた世界は、街の煌びやかな灯りに染められて、夜の闇に浮かぶ曇天も、今日だけは少しだけ明るく見える。
 目の前を過ぎて、地に落ちた白い雪片は、あっという間に消えて無くなってしまう。電飾に輝いた雪景色が、狂おしい程、綺麗だった。
 目の端で、息を切らせて小走りに駆け寄ってくる少女の姿を確認する。
 胸が、愛おしさでいっぱいになってしまう。
「……ご、ごめん。待った?」
「いいえ、今来たところよ」
 言いながら。ありきたりな台詞だと思う。
 祐巳さんは真っ白なワンピースにコート姿で現れた。
 背中を左手で優しく撫でる。走ってきたせいか、その背中はとても温かかくて、コートを通してまでも伝わって来ているような気がした。
「……嘘。志摩子さんの手、とても冷たいよ」
 私の手を握り締めてくる祐巳さん。
 おずおずと、私はその躰を、腕の中に引き寄せてみる。
 唇がそこまでの位置に来ていた。だから私は、自分の唇をそのまま祐巳さんの小さな唇に重ねてみる。それはとても自然なことだし、とても当たり前のことなのだ。
 泣いていた。祐巳さんが。
「ごめんなさい、痛かったかしら」
 思わず、半ば抱きすくめるように、祐巳さんの後ろに回していた両手を離す。
「ううん、そんなのじゃなくて。ただ、嬉しくて……」
 私はまた左手で祐巳さんの躰をより一層引き込んで、そして再び唇を祐巳さんのそれに重ねた。
「少し、歩きましょう」
 祐巳さんのほうも、手が剥き出しで寒そうだ。
 私は祐巳さんの手を取り、ゆっくりと自分のコートのポケットに導いた。かつてお姉さまが、そうして下さった時のように。
 私たちはポケットの内側で熱を伝え合う中にだけ心を循環させながら、何も言葉を発さずに、ただ黙々と歩き続けた。
 クリスマスイヴに賑わう人の群れも。綺麗な街のイルミネーションや、鳴り響く音楽も。街の中心部から離れていくほどに、どこか澄んだ空気にも擦り切れるように聞こえて来る。それはさながら、遠い異国から聞こえる音楽のように、心地良い。
 駅前から十分も歩けば、私の家から程近い公園が見えてくる。閑散として、ただ何も無いだけの公園。子供の遊戯に利用できるようなものは一切無く、植樹された木々と、いくつかのベンチがあるだけの場所だ。
 それを見て、祐巳さんが顔をしかめる。
 夏も全盛の頃。ある雨の日。今、私と祐巳さんの辿る記憶の行き先は一致しているに違いない。
 あの時は、どうかしていた。そう祐巳さんに話すのは容易いことだ。しかし、あの倒錯した行動も、卑屈な思考も、総て真実の私でしか無い。それだけは、伝えておきたかった。
「変わらないね、ここも」
 祐巳さんが、はぁーっと白い息を零しながら言う。
 変わらない、なんてことは無いだろう。確かに公園に何らかの変造があるわけではないのだけれど、あの頃には青々と茂っていた草木は総て丸裸だ。
 しかし、今の二人に見えているのは、丸裸の木々では無い。濡れる緑の木々。そして、激しい打楽器の雨音。
「そうね、何もかも、あの時のまま……」
 私は、何ひとつとして成長できていない。だから、心にあるあの風景も、何ひとつとして代わり映えしない。
 寂しい思い出だ。だけど、大切な思い出だ。
 いつだって、失って初めて気付くものがある。私の場合、それが乃梨子だった。
 乃梨子と過ごした日々を、蔑ろにするわけではない。
 私は、その公園の中ほどで、祐巳さんの唇を、雪のように音も立てずに奪う。そして、舌を絡めるキス。初めてのせいか上手くいかなかったけれど、口内に侵入した瞬間、祐巳さんの熱を感じて、びっくりしてしまう。
 息ができない。ぷはっ、と二人離れた後に、ぜいぜい言い合いながら呼吸する。それがなんだか面白くて二人向かい合って笑ってしまう。
「なかなか、難しいものね」
 祐巳さんが、あははと笑いながらそれに応える。
 哀しい思い出しか無いこの場所に、これからたくさんの嬉しい思い出を植えて行こうと思う。その出発点に、ディープキスの思い出がまず根ざした。
 一瞬、私はこんなに祐巳さんのことだけに夢見ていていいのだろうか、と自問してしまう。祐巳さんの傍にいることで、倖せを感じつづけていていいのかと思う。
 実際、問題はまだ殆ど片付いていない。
 だけど、今は祐巳さんのことをただ想い、そして触れていたかった。今はただ、そうしていていいのだ、とも信じられた。問題は山積みでも、こうして少しずつ祐巳さんに触れて、そして元気を分けてもらえる。それだけで、どんなことにも立ち向かっていける気がした。
「志摩子、さん?」
「ああ、ごめんなさい」
 ちょっと考え事をしてしまっていた。そんな私の首に祐巳さんがふわっと被せてくる。
「……マフラー?」
 雪の中に溶けそうな、純白のマフラー。長さが少し短いなと思ったけれど、厚みがあってとても暖かそうだ。
 その中に、いくつか目立たない緩みや綻びがあるのを見て、それが祐巳さんの手作りだと気づく。
 頬が熱くなり、歓喜で涙が出そうになった。同時に、祐巳さんがこんなにも私を思っていてくれるのに、自分はどうだろう、と思うと少し辛い。私にも時間は十分にあったはずなのに。私は祐巳さんの為に何かをしようとか、そういうのを考える時間を持たなかった。
「私は、自分のことしか考えられなかった。祐巳さんのことを何よりも大切にしていると錯覚しておきながら、結局自分のことしか考えれていなかったのね…」
 そう考えると、思わず涙が出てきた。結局私は、自分だけが苦労しているという錯覚に溺れて、大切なものを見失っていたのだ。
「そんな……。志摩子さんを泣かせたいと思って作ったわけじゃないんだから、笑って受け取ってよ」
「そうね、ありがとう……」
 首に巻いたマフラーはまだ冷たいままだったけれど、それを身につけているだけで心の深い部分から暖められていく気がする。
「私からもプレゼントがあるの」
歩いている時に祐巳さんと手を繋いでいた側とは逆側のコートのポケットから、装飾された小箱を取り出す。「生憎、祐巳さんのほど心は込もっていないけれど」
「……いいの?」
「そりゃあ、私にだって祐巳さんにプレゼントする権利ぐらいは赦して貰えるのよね?」
 うんうん、と縦に強く首を振る祐巳さんの眼にそっと手のひらを被せて、目をつぶらせた。
 装飾をゆっくりと剥がし、中の箱を開ける。銀の輝きが、雪に反射してとても綺麗に見える。チャラ、という小さい音を立てたそれを取り出し、そのまま祐巳さんの首に回して、後ろで繋ぎとめた。
「ネックレス……?」
「そう。祐巳さんに、似合うと思ったから」
 冷たさと驚きに緊張していた祐巳さんの顔が、一瞬にして綻びる。ああ、その笑顔が見られるなら。いくらでも、何でも。祐巳さんが喜んでくれる限り、プレゼントしてあげたいと思ってしまう。
 祐巳さんが笑顔で言ってくる。
「ありがとう」
「私のほうこそ、ありがとう」
 だから私も、精一杯の笑顔で応えるのだ。
 こうして良い思い出がどんどん作られていく。
 今度この場所に来た時には、きっと寂しい思いに凍えされることも無くなるに違いない。実際、ここで足を運んだ瞬間に、恐怖心を覚えたのは祐巳さんだけでは無い。私もまた、あの時の自分の姿を顧みて、今にも凍氷しそうな錯覚を覚えてしまった。
 だけど、次にここに来た時には。きっと笑顔で居られると思う。辛い思い出を忘れられるわけではないけれど、きっともっと思い出すだけで倖せになれる、祐巳さんの笑顔の思い出があるから。
「今夜は……」数瞬の躊躇のあと、「……今夜は、志摩子さんの部屋に泊まりに行ってもいいのかな?」
 祐巳さんが遠慮がちに訊いてくる。
「ええ、勿論。……あと、これも」
 手を広げて、と祐巳さんに告げる。おずおずと差し出された祐巳さんの手に、私は手早くそれを滑り込ませ、
そしてその手を重ねるようにして握らせた。
 祐巳さんが手のひらを広げて、それをまじまじと見る。
「……合鍵?」
「ええ」
 ついさっき、駅前で待ち合わせをする前に予め作っておいた、自分の部屋の鍵。キーホルダーも何も付いていない、そっけない物だ。
「……いいの?」
 ――もちろん。私は笑顔を返すことで、そう答えた。
「ただ、期限付きになってしまうかもしれないけれど」
「期限付き?」
「ええ」
 みるみるうちに、祐巳さんの『百面相』が、隠しもせずに哀しみを顕にしてくる。
「まさか、乃梨子ちゃんの所に、いっちゃうんじゃないよね……? 私を置いていくんじゃないよね……?」
 涙混じりの声が、とても痛々しい。
 私は優しく両手で、祐巳さんの体を包み込んだ。
「違うわ。私は祐巳さんを決して離さない、それにもう祐巳さんを決して手放すことができないくらい、私のたくさんの部分を祐巳さんが占めてしまっているから」
 それは、正直な私の本音だ。もう、祐巳さん無しではきっと生きられないところまで心は切迫されている。
「志摩子さん……」
「ただ、あの部屋では狭すぎるわ。……こんなことを思うのは私の勝手なのだけれど、もし祐巳さんさえ良ければ、高校を卒業したら、一緒にあの部屋で暮らせないかと思っているのよ」
 それは、どんなに夢のようなことだろうか。
 祐巳さんと共に過ごせる時間。それに包まれた生活。
「勿論、ご家族の許可が頂けるかはわからないし、高校卒業と同時っていうのは、あるいは無理なのかもしれない。だけど、いつか私は祐巳さんと一緒に暮らせたらいいなって、そう思うの」
祐巳さんの眼から、もう今日何度目かわからない涙がしきりに流れ落ちる。
「志摩子さん……」
 だけど、顔は笑顔で居てくれるから。
「最近ね」私は祐巳さんの額にゆっくりと軽い口付けを済ませてから、「毎日それを夢に思うの。朝目覚めたら祐巳さんの寝顔がそこにあって、そして一緒に朝食を食べて、一緒に大学に通って、帰りに手を繋いでお買い物をするの。夕飯のメニューを一緒に考えたり、ちょっと脇道にそれて一緒にお菓子をつまんだり。全部私の勝手な夢だけれども、もし祐巳さんが嫌でなければ……」


 雪が、硝子の塵のように、降る。
 志摩子はそれを、絶望するほど、綺麗だと思った。