■ 第2章−「静謐な夜」
私の躰を緊張感が支配していた。
時計を見やる――あと一時間。
大切な人を待つ時間というのは、こんなにも長く、悠久に感じられるものなのだろうか。
*
私の一世一代の告白から、2週間の時が流れた。
空はより遠く、空気はより冷たくなっていき、冬の本番を知らせてくる。コートを着ている街並みはなお寒々しく、この分では今年は雪も降るのではないだろうかと思う。
私達の関係は秘密を伴った。祐巳さんには祥子さまがいらっしゃるし、私には乃梨子がいる。いずれは避けては通れない道だろうが、今はまだ、総てを伝える勇気は持てないでいた。
放課後には勤めて一緒に帰るようにした。いつも閉錠時まで残り、最終組の山百合会の面々で駅までバスを共にしては、駅で別れた振りを装いつつ、打ち合わせて駅構内の本屋で待ち合わせるようにした。
喫茶店で他愛も無いお喋りをしたり、一度だけ映画を見に行ったりもした。祐巳さんは映画とかはあまり見ないほうだと言っていたし、私も全く詳しく無いのだけれど、適当に選んで入って見たラブロマンスはとても感動的だった。黄薔薇さまあたりなら、涙を流して感動しそうだ。
家に帰ってからも、二日に一度はどちらともなく電話を掛けるようになった。その日あった出来事や、明日の予定なんかを話し合った。しまいには、電話を取り合わない日には、祐巳さんの声を聞けなかった寂しさに、少しだけ眠れない想いまでするようになった。
休みの日には朝から日が落ちるまで一緒に出かけた。先々週は動物公園に、先週は祐巳さんが好きということで、遊園地にも出かけた。私はあまり遊園地みたいな場所は疲れてしまって楽しめないほうなのだけれど、祐巳さんがそこにいるという事実だけで、十二分に楽しめたし、幸せに過ごすことができた。
「日曜日はどうしよっか」
受話器越しに聞く祐巳さんの声は、いつ聞いても私の心を暖めた。
あれから二週間後の金曜日。今日は祐巳さんのほうから私の家に電話を掛けてくださり、いつも通り明後日の日曜日にはどこに行こうか、その予定を立てる話になっていた。
「祐巳さんは、明日もお暇ですか?」
日曜日にはお互いに努めて予定を空けるようにしていたけれど、土曜日はその限りでは無かった。時節柄テストの近いこの時期に土日両日をお誘いするのはさすがに躊躇われたからだ。
しかし、私はあえてそれを破った。私は、ひとつだけ。もしも祐巳さんが嫌でなければ、あることに祐巳さんをお誘いするつもりだった。
「私は開いてるけど、志摩子さんは大丈夫なの?」
「勿論、私から誘っているのですから」
それもそうだね、と軽快に笑う祐巳さんの声が好きだった。
「その、もし祐巳さんさえ良ければ――」
私は意思を固く決め、きっぱりと言った。
「私の家に、泊まりに来ませんか?」
瞬間、電話越しなのにはっきりと解るほどに空気が変わった。
親しい間柄でする「お泊り会」みたいなものではない。そういう意味で取られないように、はっきりと意思をこめて、きっぱりと私は言った。実際、祐巳さんにはそれは伝わったのだろう。急に会話が無くなった受話器からは、シャーッという、小さなノイズ音だけが生々しく感じられた。
「……うん、お邪魔します」
祐巳さんが暫くの後に、こちらもきっぱりとした声で言った。
「……いいんですか?」
私は敢えてその言葉の真意を問う。
「うん」
祐巳さんが力強く応えてくださった。だから私も、迷わずに決心することができた。
*
「こんばんは」
「いらっしゃい、祐巳さん」
土曜日の夕方、かくして私の玄関口に立つ祐巳さんがいた。決して小さくは無い袋を抱えたその姿は妙に愛らしくて、自然に頬が緩むのを感じた。
「あらあら、いらっしゃい」
奥から出てきた私の母が挨拶しに出てきた。祐巳さんが深深と頭を下げる。
「わかりにくいでしょう、ここ。迷わなかった?」
「……実は、少しだけ」
途中困っていたら、親切なお坊さんが、呵呵と笑って自分の頭を叩きながら道を教えてくれたらしい。
祐巳さんの話に出てきた、そのお坊さんこそまぎれもなく私の父に違いなかった。昨晩話をしておいたのでお父さまのほうで察してくれたのだろう。こんな所を若い女性が単身歩いていることも、そうないのだから。ましてや祐巳さんの手に握られたそのバッグを見れば、父には簡単に総てを察することができたに違いない。
「外は寒かったでしょう。さあさあ、どうぞ中で暖かいお茶でもお飲みになって。志摩子、お客様にお茶を淹れて頂戴。あ、荷物はそこに置いたままで結構よ。あとで信吾さんに運んで貰いますから」
さすがはお客接待は慣れたもので、母ができぱきと祐巳さんを歓迎する。信吾さんとは、この寺に住み込みの修行僧の方で、色々とお手伝いをして下さっている方だ。
「祐巳さん、紅茶でいいかしら?」
祐巳さんが頷くのを確認して私は台所に向かう。あとの祐巳さんの歓迎はお母さまに任せておけば喜んでやってくれるだろう。お母様は、誰かを歓迎するというのが大好きなのだ。
しかし、よくよく考えてみれば紅茶はあれど、普段飲むのは私ひとり。果たして他のティーカップなどあっただろうか。最悪、湯のみに紅茶を入れて出すしかないのだろうか。
「ありがとう」
祐巳さんが重いコートをハンガーに掛けながら、テーブルに差し出した紅茶に礼を言う。
結局、普段自分の使っているティーカップを祐巳さんに差しだし、私は緑茶を頂くことにした。本当は私も紅茶が飲みたい気分で、湯飲みに紅茶を入れたまでは良かったのだが、湯飲みにレモンを浮かべた時点でその余りの滑稽さに笑ってしまい、結局その場で飲み干してしまった。
私の部屋には物が余り多くは無い。子供の頃に買ってもらった重い学習机と、いくつかの本棚、それに小さい
木目のテーブルがあるだけだ。日に焼けた畳が部屋を埋め尽くしているから、勿論ベッドなどある筈が無い。
祐巳さんが紅茶に口を付けていた。私も緑茶を小さく啜る。
会話の無い世界が流れる。お互いに何かを語れる雰囲気では無かった。
窓の外はもう闇に包まれていた。祐巳さんが着てからまだ一時間と経っていないが、冬の日が落ちるのは早い。
ゆうに十分は無言のままに過ごしただろうか。私は、自分のほうからその無言の約束を破った。
「あの、祐巳さんを、今夜抱いてもよろしいでしょうか?」
祐巳さんはただ硬直したまま、きょとんとしている。
我ながらなんて情け無い台詞なのだろう。せめて、もう少しぐらいは格好良く言えないものかと自己嫌悪に陥りそうになる。「抱きたい」とか「抱かせて」とか、もう少し自分の意思を通せない物かとも思ったが、もう言ってしまった物は仕方が無い。
――祐巳さんは私を軽蔑するだろうか。
ふと、そんな怖い考えが頭をよぎった。私達は、確かにお互いへの好意を確かめ合ったし、くちづけも交わした。しかし、イコール「抱く」という行為は、あまりにも欲情的な考え方なのではあるまいか。
お互いが好き合う事は、お互いが行為を求める事と同義語では無いかもしれない。もしそうであるのなら、祐巳さんを抱きたいと、祐巳さんと行為を交わして証を求めたいと思う考えはあまりにも一方的で、過ぎた思いかもしれないのだった。
そう考えると、怖くなった。祐巳さんは、私を軽蔑するかもしれない。そう考えると、自分の頭の中が恐慌をきたした。欲しがる事で失われるかもしれないのであれば、いっそ求めなければ良い。そう、祐巳さんを「抱きたい」と思うことなど、始めから私のあまりに我侭で、身勝手で、浅慮な欲望だったのだ。
いい、いらない。抱けなくても良い。
私は祐巳さんに棄てられると、生きてはいけない――。
「……よろしく、お願いします」
はっ、と息を呑んだ。瞬間的に、今、何を、言われたのか、解らなかった。
祐巳さんはとても恥ずかしそうに、そして顔も紅らめながら、けれど視線だけは真っ直ぐに私の瞳を見て、確かにそう言った。
ようやく理解してそれから、私の脳内に嬉しさの余り再度の恐慌が起こった。
だけど、私も祐巳さんへの視線だけは背けなかった。もし、今少しだけでも視線が向き合わなくなったら、それだけで脆く崩れてしまいそうな気がしたから。
「ん……」
祐巳さんの唇に自分の唇を重ねる。ただこれだけの行為で、こんなにも充足した気持ちになれるのだから、好きな人とのキスって凄いと思う。
恋愛小説は常に女性の唇は柔らかい物と決め付けるが、祐巳さんの唇も確かに柔らかいには間違い無かったが、どちらかといえば張りがあって弾力があって、柔らかい皮に包まれているみたいに明確な形があった。だから、私は軽く触れるだけのキスではなく、お互いの唇の先が潰れあうぐらいの濃厚なキスを求めた。さすがに舌を絡め合わせるような大胆な事はできないけれど、さすがに祐巳さんもびっくりして一度目を見開いた。それを閉じて、祐巳さんのほうからも唇を寄せてきてくれた時には、私は歓喜の余りにもう何度目か解らない恐慌を覚えた。
熱いキス。そんな表現が適当かもしれない。始めはお互いに息を止めて向かい合っていたもののやがて続かなくなり、お互いの息が鼻から漏れ、口からも漏れ出すと、それはさらに濃厚なキスを感じさせた。お互いの体温が触れ合ったキスから、漏れる吐息から痛いほどに感じられて、もうどうしようもなくなっていた。
さすがに辛くなってきてようやく離れた頃には、おたがい限界でぜぇはぁ言いながら深呼吸をした。それがなんだか面白くて、お互いに小さく笑いあった。とても心地良かった。
私は祐巳さんの服に手をかけた。途端に祐巳さんが強張った表情になったのに気付き、私は慌てて祐巳さんに「いい?」と問い掛ける視線を投げた。祐巳さんは迷う事も無く、真剣な面持ちでただ「はい」と頷いた。
祐巳さんを一糸纏わぬ姿にするのはいとも簡単だった。良く映画のワンシーンで殿方が女性の服を脱がしに掛かる際に苦労する事があるが、そんなのとは無縁の世界だった。何故なら、そもそもお互いに同じ性別なのであり、私と同じ制服は勿論、下着についてもそう構造が変わるわけでもない。ブラジャーのホックを外すのも簡単な事だった。
今にも湯気が立ち上りそうな程に火照った祐巳さんの身体を丹念に眺める。申し訳無いが、お姉さまが祐巳さんの身体を抱きしめたがるのが解った気がした。
「あんまり、見ないでください」
そう恥ずかしそうに祐巳さんが私をせっついた。顔は完熟と称してもいいほどに紅が差し、その表情や声色がより一層私の感情を昂ぶらせた。
私の指先が軽く祐巳さんの双丘に触れると、祐巳さんは猫のようなかん高い声を上げた。一瞬それ以上触れるのに躊躇われたが、何度も確認を求めるのも酷だろうと思い、そのまま祐巳さんの胸を両手に触れ、ゆっくりとその形状をなぞってみたり、軽く弾力を確かめてみたりする。その度に祐巳さんは声にならない声を、つまり「ハッ」と吐息を零した。さっき私に声を聞かれたのが恥ずかしくて、多分必死に声を我慢しているのだと思う。
そう思うと、お姉さま譲りかもしれない私の意地悪な心の一面が私を駆り立てた。ゆっくりではあるものの祐巳さんの胸を弄んでみる。全体を緩慢に揉みしだいてみたり、あるいは指先で祐巳さんの小さな胸の先を転がしてみたりする。その度ごとに祐巳さんは熱っぽい吐息だけを吐き出し、必死に私に抵抗しようとした。あくまで声を上げないつもりらしい。
そうなるともう私は自分の意志で自分を制御できなくなった。祐巳さんが痛がらないように気をつかいながらも少しずつ力を込めて揉みしだいてみたり、あるいは口に含んでみたりした。さらには胸よりも舌の方へと左手を這わせていく。やがてお腹に触れ、そして腰のくびれに触れ、やがて祐巳さんの体熱が躰の最も直接的に現れる部分に触れる。
「やッ……!」
祐巳さんが抗議の声を上げた。それは、私に平常心を取り戻させるのに十分な声だった。
私は慌てて祐巳さんの躰から手を離して立ち上がると、自分の服を急いで脱ぎ捨てた。投げ捨てた、と言った方が適切かもしれない。ワンピースの制服はしわになってしまったかもしれなかったが、そんな事は気にしていられない。そのままブラジャーのホックを外し、ショーツを脱ぎ捨てる。
私はベッドに再び潜り込むと、祐巳さんの唇に一瞬だけ触れる軽い口付けを交わして、その後で「いい?」と小声で尋ねた。私はその返事を確認して、再び祐巳さんの身体に手を這わす。
入り口を優しくなぞった後、探るように指先でその膣に触れてみる。温かいを通り越して熱いぐらいに濡れそぼったそこに辿り着くと、より一層祐巳さんの上げる声が高まった。
「ああっ、……はあああっ!」
さっきまで上げていた快感とも恥ずかしさともつかない声色とは、一線を画す声だった。
もう、躊躇わない。そう決めていた私はさらに祐巳さんのより熱い、熱の中心を求めるかのように、求心力に流されるままに執拗に指先を這わせる。
「ああああっ……!」
小陰唇にまで指を這わせたところで、祐巳さんが絶頂の声を上げた。躰はアーチ型に曲がり、溢れ零れんばかりの愛液を指先に纏わせた。
やがて緊張から弛緩した躰を疲れて横たえた祐巳さんに私はこう告げた。
「愛してます、祐巳さん」
祐巳さんは何かを言い返そうとしていたようだけれど、まだ荒々しい呼吸の前に言葉を出せないようだった。ただ、その代わりに優しい笑顔を向けてくださった。私はその応えだけで、十分に満足した気持ちになれたのだった。
*
水滴を纏わせた窓の向こうには、雪が舞い散っていた。まだ十二月も半ばだというのに、道理で寒いはずだと思う。
「志摩子さん」
愛しい彼女が名前を呼ぶ。それだけのことが、何故か特別にすら思える。
私は嬉しくなって、祐巳さんの小さい手を軽く握りながら「なに?」と聞いた。
「大好きです……」
私のほうこそ、もう祐巳さんのことを絶対に放せないほど、彼女のことを好きになっている。
ちらつく雪は心を冷たくしようとするけど、部屋が暖かいのでそれは苦にならなかった。この部屋には祐巳さんがいる。だから、この部屋にいる限り、私は外気や衝動に心を冷たくすることに怯える必要もない。
これから、きっともっと寒くなっていくのだろう。だけど、祐巳さんと一緒ならそれもきっと乗り越えられる。
きっと辛いこともたくさんあるのだろうけど、祐巳さんの為なら、きっと私は耐えて行ける。
だから私は、ただ祐巳さんを愛しつづけるだけでいいのだ。今度の気持ちには嘘偽りなんてない。私は心から望んで祐巳さんを愛するのだ。