■ 第3章−「Don't Leave Me.」

LastUpdate:2005/08/09 初出:姉妹の絆・恋人の絆(同人誌)

「おはよう……」
 祐麒は誰にともなく、居間に入ると同時に朝の挨拶をする。これは、我が家でのひとつのルールみたいなものだ。
 昨晩は遅くまで本を読んでいたので、まだ寝足りない感じ。それでも、学校には行かなきゃいけないし、一応生徒会長であるからには遅刻はおろか、遅刻ギリギリの登校もできるだけ控えるようにしなければいけない。
「おはよ」
 と、眠い目を擦っていたら、目の前にそこに居るはずのない姉の姿があったりするから驚き。
「うわ、今日は雨? 雪?」
「失礼なっ、私だってたまには早起きだってするよ」
 普段は自分よりよっぽど遅くに目覚めるくせに、今日に限ってはもう朝食も食べ終わって準備万端って感じ。
「たまにはって、少なくとも自分より祐巳が先に起きてたこと、今年になって初めてだと思うけれど?」
 そう祐麒が憎まれ口をきいてみても、祐巳はなにも言い返して来ない。いつもなら真っ先に言い返してくるはずなのに。
 朝はわりと元気なくせに、今日に限ってはその元気もどこかにいってしまったみたいに見える。
「……大丈夫? なんか元気ないみたいだけど」
「あ、うん、平気平気」
 そういう祐巳の表情は明らかに『平気』じゃない。昨日は小説に没頭していたからうろ覚えだけど、そういえば昨日もこんな浮かない顔をしていた気がする。
「それじゃ、先に行くね」
「うん、行ってらっしゃい」
 どこか陰鬱なその表情を見てしまっては、祐麒は祐巳にその理由を問うことも躊躇われてしまう。
(心配だなあ……)
 朝からせっかく好物の鮭が出ているというのに、祐巳のあんな表情を見てしまっては、それさえもあまり味気ないように感じられた。

      *

「あら、祐巳さん。おはよう」
「えっ、志摩子さん?」
 自分の教室に向かう途中、ふと目をやった藤組の教室で、中にいる志摩子さんと目が合った。
 志摩子さんは自分の席で読書に耽っていたみたいで、机の上に無造作に置かれた文庫本から、わずかに栞が飛び出ているのが見てとれた。
 それにしても、他に校舎内にはまったくと言って良いほど人影はないし、他に見渡した教室にもまだ登校して来ている人は殆どいなかったというのに。
「いつもこんなに早くに来るの?」
「そうね、大体このぐらいには来てるわね」
「うわ、早っ」
 まだ他の人が登校してくるには、早い人でも三十分ぐらいはある気がする。だいたい、あと一時間遅れてきたって、まだ遅刻にはならないような時間なのだ。
「なんとなく、ね。いつも目覚ましよりも早くに、目が覚めてしまうのよ。で、やることもないから、そのまま学校に来てしまうだけ」
 目覚ましなしで起きれるなんて、信じられない。祐巳なんて、目覚ましがあってもなかなか起きられないぐらいなのに。……どうして、人によってこんなに差がでるものなのだろう。
 自分のクラスである松組まで移動して鞄を降ろすと、志摩子さんもこっちのクラスまでほどなくやってきた。
「ちょっと話をしてもいいかしら」
 早く来すぎて、本来来る予定だった時間までにはまだ結構余裕があったから、祐巳は喜んでそれに応じた。
 志摩子さんが祐巳の前の席を指差して、ここに座ってもこの席の人は怒らないかしら、と訊いてくるので、絶対に大丈夫と答えておいた。だって、志摩子さんに座られて怒る人なんて、きっとこの学校にはいないから。
 志摩子さんとの話は、やっぱり昨日のこと。
 祐巳や可南子ちゃんが悩んでいる横で、志摩子さんたちも悩んでいたらしい。
 姉妹の場所と、恋人の場所。それは、近いものかもしれないけれど、決して同じものじゃない。祐巳が可南子ちゃんにそれを教えられたように、志摩子さんたちにも、少なからずそれは考えさせられることだったらしい。
「昨日の可南子さんの話を聞いて、私はただ感動したわ。人を愛する気持ちなんて、例え気づくことができたとしても、伝えられない人はたくさんいると思うもの」
 志摩子さんの言うとおり、確かにそれはとても難しいことだと思う。
 祐巳だって、きっとお姉さまをこんなにも好きという気持ちを伝えようと思ってもそれは一筋縄ではいかないことだろうし、たった一言の自分の気持ちを伝えるだけなのに、きっと考えられないほどの労力を払わなければならないのだろう。
「そして、あらためて乃梨子のことを考えてみたの。乃梨子のことは……きっといまでは、姉妹の絆なんて関係ないぐらい好きだし、それに『恋愛対象』としてだって、たぶん私は乃梨子を愛してしまっていると思うの」
 そう言った後、志摩子さんは伏せ目がちになりながら、搾り出すように続けた。
「……だけど。だからといって、そういう意味で乃梨子を安易に求めてしまってもいいものか、私にはわからないのよ。乃梨子のコトが好き、ってあらためて意識してしまうともうダメ。手をつなぎたい衝動に始まって、キスしたいなって、抱きしめたいなって、たくさんのことを考えてしまうのよ」
 それは、志摩子さんの口から出てくるには、ちょっとだけびっくりするほど積極的な言葉だったかもしれない。
 だけど、確かに好きな人には、手をつなぎたいし、キスをしたい。その気持ちは、きっと誰にだって共通のもので、とても当たり前な気持ちなのだろう。
「で、その先は、エッチなことになっちゃうでしょ?」
 ……と祐巳が自分を納得させようとするさらに上の言葉を、志摩子さんは突然簡単に言い放ってみせた。
「え、ええええ、エッチなことって……!」
「あら……そこまでは考えてなかったかしら」
 志摩子さんは頬を真っ赤に染めている。きっと、祐巳のほうも真っ赤になってしまっているに違いない。
 いや、昨日考えましたとも。ええ、これ以上ないぐらいに。
 だけど、いざ志摩子さんから『エッチなこと』という単語が出てくると、やっぱりその、驚いてしまうのだ。
 昨日のお姉さまの時もそうだったけど、志摩子さんの口からもまた、その単語を聞かされることになろうとは。
「女同士とはいっても、恋愛の延長線上に、その……裸のおつき合い、みたいなのはあると思うのよ」
「は、はははは、はだかのおっ……」
 祐巳のオウム返しも、もはや最後まで言い切ることができない。
 確かに、志摩子さんの言うことは間違ってないと思う。思うのだけれど。
 昨日も何度か想像した祐巳と祥子さまの間で取り交わされる「裸のおつきあい」。でもすこしそれを想像するだけで、すぐに一発でのぼせそうになるぐらい、頭の中が真っ白になってしまうのだ。
 だけど……やっぱりみんな考えてるんだなあ、と想う。ひょっとして、いままでそう言うことをあまり考えないようにしてきた、自分がお子様なのだろうか……。


      *

 足を踏み入れた温室の中はまるで、いつだってここには同じ空気が流れているような錯覚を感じさせた。
 それはもちろん温度管理がされている、というのもあるのだろうけれど。だけど、それを除いても、ここにはなにか別の理由で、同じ空気がずっと滞在しているように思うときがある。
「……早いんだね、まだ時間まではちょっとあるよ?」
「色々考えたいこともありましたから」
 いつかの日にお姉さまがいたその場所。ロサ・キネンシス。鮮やかな色に彩られたすこしトゲのある香りのするその薔薇の前で、瞳子ちゃんはひとりで立っていた。
 ここには同じ空気が流れているから……瞳子ちゃんの姿が、いつしかのお姉さまの姿とだぶって見えてしまう。
「昨日一晩、ずっと悩みました。私はどうすればいいんだろうって」
 祐巳に背を向けて、優しく左手で花を撫でながら、
「私、祐巳さまのことが、好きです」
 瞳子ちゃんは静かにそう言った。
「……ありがとう」
 瞳子ちゃんの気持ちにはなんとなく気がついていた気がする。もちろんいま、こうしてはっきりと本人から聞くまでは、あまり自信を持っていたわけではないけれど。
「祐巳さまは、恋人同士、という関係をどのように思われますか?」
 瞳子ちゃんがこちらを振り返って訊いてくる。それは、昨日から何度も考えてきたこと。
「昨日ずっと考えたんです。祐巳さまと……恋人になれる未来。休日は待ち合わせて遊びに出かけたり、一緒に手を繋いだり。そして別れ際に口づけを交わして、夜は長電話して。週末のお休みには、祐巳さまを家にお招きして……」
 そこで瞳子ちゃんは口ごもって、そして顔を真っ赤に染めた。その真意を理解して祐巳の顔もまた紅潮してしまう。
「私って変態かも……祐巳さまとの未来を思うと、どんどんエッチなことを考えてしまうんです。初めは、手をつなげたらきっと幸せだろうなあ、って思った。キスできたら幸せだろうなあ、って思った。そして……」
 瞳子ちゃんは再び後ろを向いて、うつむいてしまう。だけど、襟首の部分まで真っ赤になっているから、きっと顔はもっと真っ赤になっているのだろう。
「……ごめん、私、お姉さまのことが好きなんだ」
「知ってます」
 可南子ちゃんにそう告げたときと同じように、瞳子ちゃんもまたそう返事をした。
「祐巳さまがお姉さまのこと好きだって知ってます! お姉さまも祐巳さまのことを好きだって知ってます!」
「瞳子ちゃん……」
「だけど……だけどっ! 瞳子は祐巳さまのことがどうしても好きなんです! 私はいったい、どうしたらいいんですかっ……!」
 とうとう瞳子ちゃんは声を詰まらせて泣き出した。だから、祐巳の瞳からもすこしだけ、涙が溢れてきた。
 きっと私は、お姉さまが一番好きなんだと思う。
 だけど、私は可南子ちゃんも、瞳子ちゃんも、ふたりともとっても、好き。
 私だってこんな気持ち、どうしたらいいのか、わからないんだ……。

      *

「あ、祐巳さん」
「由乃さん、おはよう」
 教室に戻ると、登校していた由乃さんに、いきなり腕を引っ張られて教室の外に連れていかれる。
「ど、どこ行くの?」
「ひとけのないところ」
 由乃さんにずんずん引っ張られて着いたところは、屋上に続く階段の踊り場。確かにここならひとけは全くないけれど。
「どうしたの、いきなり」
「ごめんね、ちょっと祐巳さんと話したかったから……ところで、鞄はあるけどいないと思ったら、どこいってたの?」
 一瞬言っていいものか迷ったけれど、そこは親友の由乃さんだから、正直に話してみることにした。
 瞳子ちゃんに呼び出されたこと。瞳子ちゃんに告白されたこと、全部。
「ふーん……」
「……驚かないんだね」
 もうちょっと、由乃さんらしい派手なリアクションをするかと思っていたけれど。
「うーん、瞳子ちゃんが祐巳さんを好きなことになら、全く気づいてないわけでもなかったしね」
「えっ、そうなの?」
「私だけじゃなくて、志摩子さんも乃梨子ちゃんも、あそこにいる人はみんな気づいてるんじゃないかな?」
 その後で由乃さんは、令ちゃんだけは鈍感だから気づいてないと思うけど、とつけ加えた。
「祐巳さんが正直に話してくれたから、私も正直に言うんだけど……」
 由乃さんもまた、志摩子さんと同様に、令さまとの距離を測りかねているらしい。
 やっぱり、可南子ちゃんのあんな宣言を聞いてしまった後では、誰もいままでのようにはいられない。だって可南子ちゃんがみんなに宣言したことは、あるいはそこにいた誰もが、奥底に抱えていた素直な感情だったから。だから、誰も可南子ちゃんのことを批判できないし、他人ごとだと笑って済ませることもできない。
「由乃さんは令さまと恋人になりたいと思う?」
「……たぶん、それはすごくなりたい」
 由乃さんがすこしだけ顔を赤らめながら言う。
「じゃあ、由乃さんだったら、恋人とどんなことまでしたい?」
「どんなことまでって?」
「だから、キスとか、エッチなこととか……」
 祐巳がそういうと、ズササッ、って慌てて由乃さんが数歩後ずさりながら驚いた。
 そ、そうだよねっ。それが普通の反応だよねっ。
「ゆ、祐巳さんがそんな積極的なこと訊いてくるだなんて、予想してなかった……」
 なにしろ、私だって二日前までは、そんなこと微塵も考えてませんでしたから。
 由乃さんは真剣に考えた後に、「そうだね……好きな人となら、やっぱりそういうコトもしたいと思う」と言った。
「私は令ちゃんが好き。だから令ちゃんがもし嫌でなければ、きっとそういうコトもしたいんだと思う」
 由乃さんも、朝の志摩子さんと同じように、顔を真っ赤にしながらそう答える。
「けれど昨日の放課後までは、そんなことなんて全く考えてなかったから。だから、いきなりこんなことになってしまっても、気持ちの整理が追いつかないよ……」
 そう言った由乃さんの表情には、焦っている様子が見え隠れする。
 つい先日までには、きっとずっと同じ関係が流れる、とてもゆっくりとした時間があったはずなのに。
 いつから私たちは、こんなに焦燥感に駆られながら、時間を気にするようになってしまったのだろう。

      *

「おーい、祐巳さん、祐巳さん」
「……ぉ?」
「寝ぼけてるの? それともただ呆けてるの?」
 真美さんに呼ばれて気がつけば、もう授業中ではなかったらしい。周りはいつの間にか騒がしくなってるし、みんな机を集めてお弁当を開き始めている
 なんだかもう、今日の授業はさっぱり耳に入らなくて。ただ時間だけが、虚ろに流れていった感じ。
「……なんだか今日は、祐巳さんも由乃さんもふたりとも変ね。なにかあった?」
 やっぱり、周りから見ても変なのだろうか。これだけ本人が今日の自分は変だと自覚しているのだから、やっぱりそうなのかもしれない。
「あまり頼りにならないかもしれないけれど、私でいいなら相談に乗るよ?」
「記事にしないなら、相談に乗って欲しいけど」
「うっ、痛いトコロを」
 横から割り込んできた由乃さんの返事に、真美さんが笑いながら受け答えをする。真美さんは約束を破るような人じゃないから、そう約束してもらえたなら、安心して相談できる心強い友達だ。
「ここじゃ話しづらいこと?」
「うん、ちょっと話しづらいかも……」
「じゃあ部室でお昼食べよっか。どうせ誰もいないし」
 という真美さんの提案で、クラブハウスのほうにお弁当持参で移動する。
 山百合会の仕事の関係でクラブハウスに来る機会は何度かあっても、新聞部の部室へ入るのは初めて。なんとなく新聞部というと、雑多であまり綺麗という印象はないのだけれど、思いのほかちゃんと片付けてあってすこしだけびっくり。
 真美さんが言うには、去年までは結構酷かったらしいけれど、部長になってからは真美さんがこまめに綺麗にしているらしい。机の上も綺麗に片付けてあったので、三人でそのままお弁当を広げる。
 可南子ちゃんのことから順序だてて話す。正直あまり説明が得意ではないけれど、そこは賢い由乃さんがサポートしてくれるし上手く伝えられたんじゃないかと思う。
 途中で何度か「記事にしない約束なんて、するんじゃなかった!」って真美さんが唸ったけれど、たぶん約束してなくても、真美さんはこれを記事にするような人じゃないってわかってる。
「真美さんも、やぱり三奈子さまのことが好きなの?」
 そう訊いた祐巳に、真美さんは複雑そうな顔をしてみせた。
「お姉さまのことはもちろん好きだけれど、それはたぶん、祐巳さんが私に訊きたいような『好き』とは違うんじゃないかな」
「と、いうと?」
「つまり、私は恋人としてお姉さまを好き、ってわけじゃないってこと」
 確かに、姉妹イコール恋人候補、と安易に結びつけるのは、その例が固まりすぎた山百合会の私たちの悪い癖かもしれない。
「あくまで、お姉さまの好きは、どちらかといえば尊敬の意味が大きいからね」
「じゃあ他に好きな人がいるの?」
「おっと、それは記事にはしないでよ?」
 真美さんに直撃質問した由乃さんに、真美さんはそう笑いながら答えた。
「まあ、正直に言ってくれたんだから、正直に答えなきゃね……いまね、蔦子さんとつきあってるんだ」
「わ、そうなんだ!」
 さすがに驚ろきの声を上げてしまう。由乃さんも驚いていたし、まだ誰もふたりの関係には気づいていないんじゃないかなあと思う。
 でも、確かに真美さんと蔦子さんなら、最強のコンビって感じで一緒に居ても誰も疑わないし、つきあってても誰も気づかないのかもしれない。
「じゃあ、もし蔦子さんと姉妹になれるとしたら、なりたかった?」
「祐巳さんは変なこと訊くね。大体、私と蔦子さんって同じ学年じゃないの」
 そういえばそうだった。同じ学年じゃ、姉妹の絆は成り立たない。
「それに、姉妹はどちらかというと『教え導く』って意味合いのほうが強いからね。私も蔦子さんも、お互いを尊敬してるしお互いを必要とすることは多いけど。だけど蔦子さんは写真で私は記事、もともと本質で求めているものが違うから、たとえ違う学年だったとしても『教え導く』姉妹関係とは、ちょっと違うんじゃないかなぁ」
 なるほど、と祐巳は思う。真美さんが言うととても説得力があった。
「山百合会は特別だから例外だけど、やっぱり他の生徒たちは同じ部の先輩なんかで姉妹関係を築くのが殆どだからね。それを一概に『恋人かどうか』で括るのは間違いかもしれないね」
 そういえばいまはクラスが離れてしまったテニス部の桂さんも、同じテニス部の人がお姉さまだった気がする。
「ところで、真美さんは、蔦子さんのどんなところを好きになったの?」
「おおっと、そろそろご飯も食べたし、退避したほうがよさそうかな」
「ええーっ!」
 由乃さんと声が重なって、ふたりで抗議の声を上げる。
 真美さんは、はははと笑いながら、空のお弁当箱を持って教室に戻っていった。
 真美さんも、由乃さんも志摩子さんも。みんな本当に真摯に相談に乗ってくれる。
 私は本当に友達に恵まれてるなあ、と、祐巳はあらためて痛感した。

      *

 午後の授業は午前のとは違って、今度はそれなりに真面目に受けることができて。真美さんに打ち明けたことで、いくらか肩の荷が下ろせた感じ。
 ホームルームで担任の先生が、今日は清掃業者が来るから学校には残れないと伝えていた。今の今まで祐巳はすっかりそのことを忘れていたから、今日も放課後には薔薇の館に行くつもりでいただけに、なんだか気勢を削がれてしまったような感じ。
 由乃さんと途中まで一緒に帰ろうと誘おうと思うと、由乃さんの姿も鞄ももうそこにはなくて。ひとり寂しく帰り始めたところ、バッタリ階段の下で瞳子ちゃんと鉢合わせたりする。
「やっほー、瞳子ちゃん一緒に帰らない?」
「……遠慮しておきます」
「昨日ね、お姉さまに美味しい喫茶店教えてもらったんだ。ひとりだと行きづらいし一緒にいこうよ」
「……」
 瞳子ちゃんはうつむいたままなにも答えない。祐巳が屈んで瞳子ちゃんの顔を覗き込もうとすると、わずかに瞳子ちゃんの瞳から涙が滲んでいるのがわかった。
 清掃の関係で下校する生徒で溢れているから。祐巳は慌てて瞳子ちゃんの腕を引っ張って、人気のない場所まで移動しようとする。由乃さんに案内された場所しか思いつかなかったから、瞳子ちゃんの腕を引きながら、いま降りてきたばかりの階段をそのまま逆走。さすがに階段をいくつも急いで移動すると、息が上がってきてしまう。
「優しく、しないでください……」
 瞳子ちゃんがそうつぶやく。
「あんまり優しくしないでください……。でないと祐巳さんに選ばれなかったとき、きっと立ち直れないぐらい、辛くなるから……」
 瞳子ちゃんの瞳からは、たくさんの涙が流れている。
 ああ、私はたった一日の間に、何度瞳子ちゃんを泣かせてしまっているのだろう。そう思うと、つらい悲しさと、嬉しさとで、つられてやっぱり祐巳にもわずかに涙が浮かんでくる。泣かせてしまっている悲しさ、泣いてくれている嬉しさ。祐巳は瞳子ちゃんのことが、どうしようもなく愛おしくなってしまって、そのまま瞳子ちゃんのことをぎゅっと抱きしめてしまう。
「だめ、です……」
 そう小声で拒絶しながらも、より涙を溢れさせていく瞳子ちゃん。
 その涙を指先で拭った後、祐巳は瞳子ちゃんに、ゆっくりと唇を重ねる。
 最初は、軽く触れるだけのキス。こんどは、ふたり瞳を閉じての、長い長いキス。
 瞳子ちゃんの唇はとても柔らかくて。さすがに舌を絡めたりする勇気はないけど、わずかな唇の隙間を伝って行き交いする瞳子ちゃんの唾液は、なんだかとても甘い味に感じる。
 そんな感動に酔いしれていた時、急に下の階からは清掃に来た業者さんの、騒がしい声と物音がしてきた。
 いくら人目につきにくい場所とはいっても、校内全てを清掃する以上この場所も清掃には来てしまうのだろう。それに、周りでガヤや物音がしていては、なんだか気が削がれてしまう。
「うちに、いこっか……」
 そう誘った祐巳に、瞳子ちゃんはすこし戸惑いながら、小さくコクンと頷いた。

      *

「この車に乗るのも、久しぶりね」
 祥子は後ろの座席から運転席へと言葉を投げた。
「前はこの車に乗るのはいやがってなかったかい?」
「いまだって、派手な車は嫌いよ」
 そう祥子が悪態をついてみせると、ミラー越しに彼が小さく笑った姿が見える。
 運転席に座っているのは、私の従兄で……同時に婚約者でもある、柏木優さん。
 校内清掃の為に早々に帰ろうとした祥子を、優さんが校門の前で待っていたのだ。
「だいたい、校門の前ではその車は目立ちすぎるのよ」
 実際、リリアンから帰宅する生徒の誰もが一度は優さんの車に目を止めた。それに車の横に立っている優さん自身だって、とても目立つ風貌をしていらっしゃるから。ただでさえ優さんは去年シンデレラで王子役を演じていたのだから、校内に知っている生徒も少なくはない。
「それで、今日はなんの用事なの?」
「ちょっと訊きたいことがあってね」
 そう言いながら優さんはコーナーに差し掛かるとハンドルを大きめに切り返した。おそらく気遣ってくれているのだろう、車酔いしやすい体質の祥子が一緒に乗車するときにはいつだって、優さんはできるだけ落ち着いた運転を心掛けてくれる。
「ユキチが、祐巳ちゃんのことを心配していたからね」
「……ああ」
 ユキチというのは、祐巳の弟さんの祐麒さんのこと。祐麒さんはとても姉思いな方だったから……なるほど、祐巳が昨日の様子のままで家に帰ったのなら、心配されるのも無理はないかもしれない。
「まだ、祐麒さんのことが好きなの?」
「君が祐巳ちゃんのことを好きなうちは、たぶんね」
「そう……」
 それは、いまも祐麒さんのことだけを愛しているということに同義語なのだろう。祥子は祐巳だけを愛しているし、これと同じ感情で他に愛すべき対象を知らないのだから。
 祥子の脳裏に、いつかの日に優さんが、自分が男しか愛せないと告げた日のことが思い出された。そして、いまの優さんの想う相手が、祐巳の弟である祐麒さんで。
 祥子が祐巳を愛していて、優さんが祐麒さんを愛していて。かつて祥子に優さんが「ぼくらの家系はきっと、先天的に福沢の家系に弱いんだね」と冗談交じりに言ったことがある。祥子はそのとき優さんに笑ってみせて答えたけれど、いまにして思えばそれは確かに真理なのかもしれない。
「むかし優さんが私に……その、男の方が好きだと伝えてくれたときに。私はただ、あなたのことを軽蔑することしかできなかった」
「それは、きっと普通の反応だよ」
「だけど……いまならその気持ちがわかる気がするのよ。私も優さんと同じように、祐巳を愛してしまったから」
「……」
 柏木さんは目を細めてなにかを考えている様子だった。だから、祥子も目を閉じて静かにそれを考えた。
 外の世界が視界に映らなくなっても、わずかに数センチだけ開かれた窓から、水気の匂いがする。それが川の匂いなのか潮の匂いなのか、そこまではわからなかった。
「……さっちゃんが高校を卒業したら、正式に婚約を解消しようか」
「……それがいいかもしれないわね」
 いつか優さんは、愛し合っていなくても結婚できる、と言った。その時の私たちはまだ、お互いに本気で愛するだけの対象を、見つけられてはいなかった。
 いまは……いまはきっとそんなことは、とても考えられない。本当に愛すべき人を知ってしまったなら、たとえ形だけや仮初めのものであっても、もはや他人を求めることはできないから。それはきっと、優さんも同じことなのだと思う。
 私には祐巳のことだけしか、もう考えられない……。