■ 5.「雪を待つ愛日」

LastUpdate:05/04/24

 お姉さまと会うことが許されるのは、雪が降った日だけ。
 そう約束したのは、夏の日のことだった。

 

「会わないほうがいいから」
 抑揚の無い声で、けれど淋しさを隠し切れない表情で、そう言ってきたお姉さまの言葉の意味が、志摩子にも確かな形で理解できてしまったから。
 だから、私はそのお姉さまの拒絶を――あるいは、泣き縋ってでも撤回させたかったというのに。それを志摩子が受け入れない限り、傷つき続けるお姉さまの姿をリアルに想像してしまえたから。その時には、もうそれ以上志摩子には何も言うことができなかったのだ。
 会わないほうがいい。ということは、会うだけでお姉さまを傷つけてしまうということ。志摩子がただお姉さまの視界の片隅にいるだけでさえ、大好きなその人が心に傷を負ってしまう――人を愛するという過程の中で、それ以上に悲しすぎる拒絶があるだろうか。
 そこまで自分と言う存在が拒まれているなんて、思っていなかった。でも、大好きな人から拒まれたなら、それ以上をどうして望むことができるだろう。だから志摩子は、お姉さまが望んだとおり決して隣の大学校舎を訪ねるようなことはしなかった。境界線の金網越しに、遠巻きにお姉さまの姿を探して。そうして見つからないとわかりきっているから諦めた。うじうじと情けないと思いながらも、それが精一杯の自分の心への譲歩案だったのだ。
 お姉さまと交わせるのは、ただ電話だけ。
 志摩子はお姉さまに会えないことで恋心の上に鬱積していく切なさの雪を、電話で払拭するしかなかった。だから頻繁に電話をかけて、そうしてお姉さまの声を聞いて少しだけ心を穏やかなものにする。そして電話を切った瞬間に電話を掛け始めた時よりもさらに多い切なさの雪に苛まれる。
 電話を終えて部屋で泣くのが習慣だった。時には堪えきれずに電話を切った瞬間に涙が溢れた。それでも、通話中に決して泣くことを自分に許さなかったのは、それによってお姉さまの心に負担を掛けたくなかったからだ。実際にどんなに目元まで涙が溢れ始めていても、決して志摩子は泣かなかった。そんな自分を少しだけ志摩子は誇らしいと思いながら……同時に、少しだけそんな自分を惨めに思えた。

 

  

 

 こんな悲しい抵抗をしたいわけじゃないのに。電話はお姉さまの側から掛けられてくるわけじゃないのに。電話をしてももっと悲しくなるだけなのに。それだけのことがわかっていて、どうしてそれでも毎日電話せずにはいられないのだろう。
 惨めで、痛かった。心が痛みを訴えると、躰に傷が付くのと動揺に痛いのだと、志摩子は今ははっきりと知ってしまっていた。
 忍耐の日々が続いた。毎日毎日、志摩子は苦しみ続けた。お姉さまを傷つけたくない一心で何も求めないと決めたというのに、志摩子自信はどんなにも傷つき疲れ果てていた。誰かを傷つけたくないという理由は、自分なら傷ついてもいいという理由になるのだろうか。そんな我儘な考えに至ってしまった自分を志摩子は悲しく思うけれど、鏡映しに自分の悲痛な姿を見てしまっているから、責めることはできなかった。
 だから、決して言わないと決めていたはずの言葉を。お姉さまにあの時漏らしてしまった自分を。許すことはできないけれど、責めることもできはしないのだ。
「……会ってください」
 言わないはずの言葉。志摩子が、抑え切れなかった言葉。
「……できない」
 その言葉はもちろんお姉さまにあっさり拒絶された。だってそんなの、当たり前。私たちの関係は、お姉さまから拒絶されることを前提に離れていったのだから。だから今更求めても、受け止めてもらえることなんてない。
 なのに志摩子は、自分の漏らした言葉を取り戻さなかった。
「会ってください……! 会ってください!」
 壊れた自動人形のように、志摩子はただお姉さまにそう求め続けた。欲しいものが手に入らない子供のように、泣きじゃくりながらお姉さまに求め続けることしかできなかった。
 お姉さまを困らせてはいけない、傷つけてはいけないと理解っているはずなのに。理性の警鐘よりも、本能の欲求が先に立っていて、志摩子自身そうした自分の持て余した衝動どうすることもできなかったのだ。
 お姉さまは――電話先の困った表情が目に見えるように――渋々といった調子で、志摩子に約束してくれたのだ。
「じゃあもしも、今年雪が降ったら……そうしたなら、会おう」
 って。


      *


 それから、志摩子の待つだけの日が続いた。
 お姉さまに最後に会ったのが三月。
 お姉さまと電話で約束したのが七月。
 真夏に雪の日を指定するお姉さまは、残酷だと思う。
 それでも、志摩子は待ち続けた。
 今年は暖冬だと告げる天気予報を恨めしく思いながら、それでもいつ来るともしれない約束の雪を。そもそも、降るかどうかさえ解らない不確かな約束を、滑稽なほどに志摩子は待ち続けた。
 あるいはお姉さまは、こうした長すぎる時間の移り変わりの中で、私が心変わりすることを期待してあんな約束をしたのかもしれないと。
 そうも考えたけれど……それでも、志摩子の気持ちは変わらなかった。

 八月に入って、季節が秋になった。
 九月に入って、秋分を迎えて。
 十月に入って、霜降を過ぎて。

 十一月に入って、とうとう暦の上では冬を迎えた。
 志摩子はただ雪の降る日を待ち続けていた。
 学校と薔薇の館には出ていたけれど、それ以外には全く何も志摩子はしなかった。
 親しい祐巳さんや由乃さん、妹の乃梨子。元気のない私を思いやってか、みんなが頻繁に遊びや食事に誘ってくれたのだけれど、それでも志摩子は総ての約束を断ってただ約束の雪を待ち続けた。

 気温が低い日。雨の日。曇りの日。
 天気予報を見ては落胆し、時には期待して。けれど冬の早い落日時には、今日も結局降ることが無かった雪に落胆を繰り返すのだった。

 十一月二十七日、小雪。
 十二月七日、大雪。
 十二月二十二日、冬至。
 寒さは、志摩子の心も凍えさせる程になってきているのに。
 今年一番寒くなると言われたクリスマスさえ、最後まで白く染まりはしなかった。


      *


「……ん」
 まだ暗い部屋。窓の外には、きっと音の無い世界。
 不意に、目が覚めた。
 まだ視界はぼやけているけれど、思考は不思議なぐらいクリアで、眠気もほとんどない。
 時計はまだ午前三時を示している。こんな時間に目が覚めてしまうだなんてこと、今まで一度も無かったのに。
 物音に驚いたわけでも、怖い夢を見たわけでもないと思う。
 強いて言うなら、何かに呼ばれたような、そんな。
 半ば無意識的にカーテンをすこしだけ指先につまんで、間から窓の外を確かめる。毎朝起きたらまずそれを確かめるのが、毎日の日課になっていたから。
「あ……」
 そうして、それを確かめた瞬間。私は、目覚めた理由を確信したのだ。


 今にして思えば、待ち合わせの場所も何も決めていなかったのに。
 志摩子は、何も考えないまま。それでも、家を飛び出さずにはいられなかった。
 降り始めたばかりの柔らかな雪が、志摩子の頬に触れた。
 頼りない街灯だけが、お寺の敷地を照らしている。
 こんな時間に交通機関が動いているはずはなくて。
 こんな時間に降った雪に、お姉さまが気づいているはずもないのに。
 寝巻きに靴を履いただけ。そんな寒々しい格好のまま、それでも。
 雪が降ったことは、きっと奇跡なんかじゃない。
 どんなに暖冬だって、きっと雪が降る可能性はあったのだから。
 だけど、それでも。
 お寺の門に差し掛かった志摩子の視界から見える、見覚えのある車の横で、優しく手を降っている最愛の人の姿がそこにあることだけは、きっと奇跡って言えるんじゃないかと思うのだ。

「どこに行きたい?」
 そう訊いてきたお姉さまに志摩子は「どこでもいいです」と答える。そうすると、お姉さまはくつくつと忍び笑いを漏らしてみせた。
「……変わらないね、志摩子は」
「そうですか?」
「うん、そういう自己主張がないところなんて、全く」
 でもね、とお姉さまは付け加える。
「実際、そういう答えが一番困るんだよね。それをわかって口にする人になら、こっちだって『あはは』って笑いながら答えられるけれど……志摩子みたいに何も解ってない人が言うには、ちょっと残酷な台詞かもね」
「……すみません」
 謝りながらも、志摩子は思う。
 十ヶ月。十ヶ月の間、果たされるかもわからない約束で縛ることは、残酷ではないのだろうか。
 でも……そんな感情さえ、ほんの数瞬も後にはどうでもよくなってしまう。
 志摩子がシートベルトを締めたのを確かめてから、車は雪の夜道を走り出す。助手席に座る志摩子のすぐ隣に、あんなに会いたかったお姉さまがいる。
「それで、どこに行きたい?」
「そうですね……」
 再度訪ねてきたお姉さまの言葉に、志摩子は言いなおす。
「お姉さまの行きたい所に、私も行きたいです」
「……はは、あはははは!」
 お姉さまが笑う。だから、つられて志摩子も笑う。
 たくさん話したかったことや、聞きたかったことがあった筈なのに。
 それらのことを、志摩子は上手く思い出すことができなかった。
 ――何か言わなきゃ。そう思って、ようやく吐き出した言葉。
「好きです」
 何が、とも。どうして、とも。対象も理由も伴わない言葉。
 それでもお姉さまはすこしだけ悲しそうな目をして。――そうした後に、少しだけ何か硬く意志を決めるような、鋭い目をして。志摩子に答えてくれたのだ。
「ありがとう」
 だから、志摩子も。
 傷つけているのではないか、嫌われているのではないか。そんな、毎日のように抱き続けてきた弱い心に負けることなく(お姉さまのことを好きでいてよかった)と、雪解けのように温められていく自分の心を、ちゃんと抱きしめることができたのだ。