■ 4.「冬枯れの街」

LastUpdate:05/01/04

 この季節であっても全く人気の絶えることの無いような駅すぐ傍の商店街通りとはいえ、やはり冬の季節では少しだけ淋しい様相が見え隠れする。それが顕著に表れているのは、やはり街路樹のそれだろう。花も芽も吹かない木々は、見るも無残なぐらい枝をバッサリと切り落とされ、これがあと数ヶ月も後には綺麗な花を咲かせるのだとは俄かにも信じがたい。
 商店街に入るまさにその入り口で、二人は立ち止まった。
「ここには、何が咲いていたかしら?」
 どうにも記憶が曖昧だったもので、蓉子は隣の聖に尋ねてみる。しかし、尋ねてもなかなか返事を貰えないので聖の表情を伺い見てみると、ぎょっと目を丸くして聖がこちらを見ていた。
「――蓉子、本当に忘れちゃったの?」
 呆れるような口調で聖にそう言われて、慌てて蓉子は思い出そうとする。しかし、どうしても思い出せなかった。
 覚えようといちど意識したことは割と忘れないのだけれど、そうでないことに関しては蓉子もそれなりに無頓着だ(もっとも、無頓着さにおいては目の前の人間に勝てる気はしないが)。春にも何度かここへ来た筈なのに、蓉子にはそれがどうしても思い出せなかった。
「花って、意外と印象に残らないものなのね」
 あんなに綺麗に咲くのに。どうして忘れてしまうのだろうか。
「ホントだよ、まさか忘れているとは思わなかった」
「ねえ、何が咲いていたかしら」
「サクラだよ、サクラ。――ほら、春にデートした時にも咲いていたじゃない」
「ああ……」
 デート、という単語だけはきっちり否定したあとに、そういえばそうだったと思い出す。春に聖と一緒にこの道を歩いたときには、余りにも綺麗な桜に心を奪われたりもしたっけ。
「そっか、染井吉野だったわね」
「覚えてるじゃない」
 聖は言い当てた私の答えを、笑顔で祝福してくれた。
 どうして忘れていたのだろう。それは聖と紡いだ、大切な思い出のひとつであった筈なのに。
 いやしかし――やっぱり忘れても仕方の無いことか。聖と一緒に時間を紡ぐ上で蓉子の心に刻まれるのは、全て聖自身のことについてだ。それにくらべれば花の与え得る感動など――やはり一瞬のうちだけを心に響かせるものでしかなくて、すぐに忘れてしまうようなことなのかもしれない。
 だとすれば疑問とするべきなのは、私が忘れているということよりも。
「聖、あなたよく覚えていたわね」
 この私より二重にも三重にも、幾重にも輪をかけて無頓着な聖が。
 しかし私が気楽な気持ちでそれを聖に訊いてしまったのに対し、聖は妙に神妙な面持ちになって「そうだね」とだけ答えて見せた。
(何か、触れてはいけないところだったかしら)
 蓉子は慌てて自分の発言を後悔する。聖には踏み入ってはいけない領域が少なからずある。そしてそれは、今でも聖の心を縛り付けている彼女の姿が常に後ろにあるからだ。
 久保栞――。
 おおよそ他人に対して「嫉妬」という感情を覚えたことのない蓉子が、生まれて初めて、強烈に嫉妬したのが彼女だ。今でも聖を捕らえ続ける彼女――。
「ああ、そろそろお腹減ったわね。お昼でも食べに行きましょうよ」
 蓉子は慌てて話を逸らそうとする。
 一時期、聖から彼女のことを忘れさせたい、と思っていた。けれど今は彼女の存在があまりにも聖を蝕みすぎていて、それは不可能なのだと諦めざるを得なかった。
 だからせめて、彼女のことについて聖に考えさせないように蓉子は努めていた。
 例えば転校という単語は一番よくない。クリスチャンやカトリックなど宗教に関する話はダメ。修道院などの場所はもってのほか。雨の天気さえできれば避けたい。
(そして、桜もダメ、と)
 子供の好き嫌いを把握するような感覚で、蓉子は聖のことを覚えていく。
 蓉子がお昼に誘っても、未だ聖は口を閉ざしたままだった。蓉子もそれ以上に無理に誘おうとはしない。聖が何も喋らないときには、私もあまり喋らないほうがいい。
「――ここで泣いたことがあるからね、私」
 自嘲気味に笑いながら、静かに聖がようやく言葉を紡いだ。
 蓉子はハッとする。そういえば栞さんとのことも……M駅だった。
 失念していた。待ち合わせた後に手早くここを離れるべきだった。いや、そもそも駅前で待ち合わせなんてするべきではなかった。
「聖、もうそれ以上喋らなくていいわ――」
 それ以上栞さんのことについて聖に言葉を発して欲しくはなかった。しかし聖は、そうした蓉子の言葉を拒絶して見せた。
「たまには栞のことを話したほうが、むしろ楽かもしれないから」
「……そう」
「それにね、今は栞のことを忘れたいわけじゃないから」
 蓉子と付き合い始めた頃の聖は、ただ必死に栞さんのことを忘れようとしていた。だから蓉子もそれを手伝おうとした。しかしその努力はただひたすらに無駄になり、聖をこんなにも侵している栞さんの重圧を再確認することにしかならなかった。
 だから、忘れようとするのは止める、と聖がいつか言った。
「忘れられないものは、きっと仕方が無いんだ。この桜も、未だに忘れられない」
「えっ、でも――あれも冬のことではなかったかしら?」
 忘れもしない。確かちょうどクリスマスの日のことだった。聖のことが気になって仕方が無い私もまた、聖と同様に山百合会のクリスマスパーティーに行かなかったのだから間違いない。
 言うまでも無いことだけれど、染井吉野が開花するのは春のことだ。それなのに、この桜が聖の印象に残るようなことが、どうしてあるだろうか。
 しかし聖は「冬だったからだよ」とただ答えてみせた。
「花も葉も芽もなくて、しかもチェーンソーでばっさりと枝を落とされて――なんて醜い木なんだろう、って思った」
 駅から見えたこの商店街入口の街路樹をみて、そう思ったのだと聖は告げた。そして、だからこそこの木に愛着を持ったのだと。
「――まるで、あのときの私みたいじゃない」
 余りにも悲しそうに聖がそう言うものだから。私もなんだか寂寥の底に叩き落されたかのように、ぶわっと涙が溢れてきてしまう。慌ててコートの袖で私は自分の目元を拭った。
「そんな悲しすぎることを、言わないで」
 聖が自嘲するのは蓉子は嫌だった。聖が自分の拙さや惨めさについて再確認することが、蓉子にはたまらなく嫌だった。
「悲しいことなんかじゃないよ」
 聖はぶんぶんと左右に首を振ってみせる。
「そりゃ今みたいな……冬枯れのままだったら悲しいけれど。でもこの桜はあの冬を開けて春になった時には、とても綺麗に咲いてた。そして今年もきっと、また綺麗に咲くんだ。だからそれは別に、悲しいことなんかじゃない」
「聖……」
 蓉子に対して聖が栞さんとの思い出について、こんな形で話してくれるのは初めてのことだった。
 忘れることはできなくても。栞さんとのことは聖の中で枷や檻としてではなく、ようやく認められる思い出に変わってきている。
「今年の春には、お花見に行きましょうか」
 ついさっき桜はダメと思った認識を破棄し、蓉子はそう提案した。
「花見! いいねえ、蓉子がお弁当作ってきてくれるんでしょう?」
「ええ、勿論。祥子や祐巳ちゃんやみんなを誘って来るのは楽しいでしょうね」
「おおー、祐巳ちゃん! いいねえ、やろう、是非やろう! すぐやろう!」
 やっぱり、悲しそうな表情を見せる聖よりも、こうして嬉しそうに燥ぐ聖を見るほうが、蓉子もまた幸せな気持ちになれる。
 忘れるのではなく、いい思い出にすること。それが蓉子の使命なのだと。
 蓉子は改めて思い知った気がした。過去を忘れるということは、それだけで淋しいことだ。だから、忘れようとするのではなく……そう、さながら思い出を浄化するかのように。聖にとっての記憶の黒を、新しい色で塗り返してあげればいい。
 きっとそれが、私に出来ることなのだ。
「すぐって……春にならないとお花見はできないわよ」
「あ、お花見の日には夜はちゃんと、蓉子の為だけに時間空けておくからね」
「――なっ!」
 カァーッと、自分の頬が真っ赤になるのを蓉子は意識する。
「わ、わたし、べ、べつに、そういうつもりじゃ!」
「蓉子さまからお誘いが頂けるなんて、光栄の至り」
「さ、さそ、誘っ!? じょ、冗談じゃないわっ!」
 さっきまでの悲痛な面持ちはどこへいったやら。今はただ人を小ばかにするような表情で、にやにやとこちらを見ている。なんだかこの人を見ていると、笑顔にさせたいと思っていた自分が本気で馬鹿みたいに思えてくるのが……。
「あ、誘ってくれてないんだ。そっかー、じゃあ夜は祐巳ちゃんと遊びに」
「え!? あ、ちょ、ちょっと、聖、それは」
「悲しいなあ。私は蓉子と一緒にいたかったのになあ。蓉子は私と一緒の気持ちでいてくれると信じてたのになあ。よよよ……」
 余りにもわざとらしい声で悲しんでみせる聖。聖に悲しい顔をさせるのはいやだけれど、だからといってこう、性格の悪い聖を助長させるようなことも、控えたほうがいいんじゃないか私。
「……さい」
「え、何? 聞こえないよ」
「一緒に居て……ください」
 それを聞いた聖が、にたあと勝ち誇った笑いを浮かべた。それがまた癪に障って、私の中では悔しさとか怒りとか、色んな感情がぐるぐるになっていく。
(まあ、いっか)
 どんな形であれ、聖が私を望んでくれているのは嬉しかった。そして私と関係を深める機会を、いつだって望んでいてくれることも。
 私は、栞さんでは踏み込めない聖域へも、踏み込める。
 あるいは醜い感情かもしれないが、そんな自負心が蓉子のひとつの心の支えになっていた。栞さんに私では勝てない部分もあるけれど、私が栞さんを上回っている部分もきっとたくさんある。
 聖の柔らかな唇の感覚を、私は知っている。
 行為の最中にある聖の漏らす、吐息の熱い迸りを、私は知っている。
「ねえ聖、私のこと好き?」
 不安になった時や自信が欲しい時には、私はいつも聖にそう問う。
 聖が、私の望む答えを、余すことなく私にくれるから。
 だから私も、今日も明日も、ずっと聖のことを好きでいられるのだと思う。