■ 5.「片時雨」

LastUpdate:05/01/05

 可南子の左手が瞳子の頬を打つ。瞳子には避ける暇も無かった。
 パシィン。
 他に誰も居ない薔薇の館に、平手と頬が立てた音が響く。瞳子にとってはそれは耳から受信するような感覚的なものではなくて、頬から鼓膜まで皮膚を伝って直接に響いてきた。
 瞳子は屈辱に顔を歪ませる。可南子に殴られたことにではなく、それが平手であったこと。そして、その平手自体がなお加減されていたことだ。
 頬は真っ赤になっているだろうけれど、音の大きさとは裏腹に痛みは殆ど感じなかった。運動系で瞳子より筋力にも敏捷性にも優れている彼女になら、たとえ平手であっても瞳子を打ち拉ぐことぐらいできただろうに。
「まったく――あなたを見てると、苛苛する!」
 怒りを隠しもせずに、可南子がそう言った。なるほどようやく瞳子は彼女の怒りの理由を察知する。
(先日、祐巳さまを泊めたからか)
 不快感の憂さを、衝動の侭に相手に対しての暴力で晴らそうとするのは彼女らしいといえばそうかもしれない。
 正月とその翌日をあえて避け、三日に祐巳さまと可南子と三人で初詣に行った。混雑した場所はあまり好きではない、という祐巳さまの意向にそって日取りを決めたものだったが、親類関係の都合で呼び出され、可南子は昼過ぎにそそくさと帰宅せざるを得なかった。
 瞳子と祐巳さまの二人だけになって特にやることも無かったので、瞳子は自宅へと招待した。どうせ男性共がいないのだから、せっかくだから三日目で大分落ち着いたとはいえまだまだ出店と人垣との喧騒で五月蝿いこんな場所よりも、静かな自宅で祐巳さまと過ごしたかった。
 しかし特に何をするわけでもなく、ただお茶を飲みながらひたすら話しただけ。可南子の怒りを買うようなことは、祐巳さまにはしていない筈だが。
「……まだ祐巳さまには、何もしてませんよ」
 もちろん、祐巳さまと深い付き合いをしたいという気持ちはある。だが、少なくともそういった行為に昨日及ぶことは無かった。
「でも、キスはしたでしょう」
「しましたけど」
 その程度で彼女の不快を買う理由がわからなかった。
 もちろん、一ヶ月前の三人での恋人関係の段階であったなら、彼女がキスひとつで怒ることもあったかもしれない。しかし、この一ヶ月の間で幾度も既に瞳子は祐巳さまとの接吻けを済ませていたわけだし、そもそも可南子だって何度も祐巳さまと済ませているではないか。
「その程度のことで殴ったのでしたら、私には殴り返す権利がありそうですが」
 いまさらそんなことで「抜け駆け」を責められる謂れは無いと思う。
 しかしそう言うと、可南子は余計に苛苛を増長させた様子だった。
「何もしてないんだからムカつくんじゃない! あー、苛立たしい!」
「……はあ?」
 本当に苛苛した様子で可南子がそう言う。
「泊めたんでしょう!? 何で何も無いのよ! 祐巳さまだってきっと期待していたでしょうに、この甲斐性無し!」
「……はあ」
 もはや何が何だかわからなかった。祐巳さまに何かして責められるならまだしも、何もしていないから責められるとはまさか思っていなかっただけに。
 あまつさえ、甲斐性無し、とまで言われるとは。
「お言葉ですが、先日祐巳さまを泊めて何もしなかったのは、あなたもではなかったですか?」
 クリスマス頃に可南子の家にも祐巳さまは泊まったはずだ。しかし、その時に可南子は何もしなかったらしい。祐巳さま本人が言っていたのだから、間違いない。
「だから苛立たしいんじゃない! もう!」
 もう! って言われましても。
「ああ、ようするにアレですか。可南子さんはあのときに祐巳さまに何もできなかった。そして私がそれを繰り返した。だから苛ついてるんですか」
「そうよ! 悪い!?」
 うわ、開き直ったよこの人。
 こんなの殆ど逆ギレだ。だけど、今「そんなの逆ギレじゃない」って言い返したら、より怒りっぷりを増長させるだけだろう。だから瞳子は、ただ可南子の言葉に何も答えなかった。
「大体、なんでしないのよ。泊まってる時点で殆ど祐巳さまからもOKサインが出てるようなものじゃないの!」
「それは……確かに、そうかとも思いましたが」
「じゃあ、どうして!」
 その言葉そっくりお返ししますわ、と凄く言い返したかったけれど、瞳子はぐっと言葉を飲み込む。
 可南子の言ってくることは逆ギレに過ぎないけれど――言ってることは正しい。
 瞳子は何もできなかった。
 祐巳さまをお泊めすることを決めた時点で、瞳子は今日こそ祐巳さまに「したい」という意思表示をするつもりだった。
 なのにできなかった。
 恥ずかしい、という気持ちもあった。だけど、それ以上にそれには理由があった。
「だって……上手くできる自信が無かったんですもの」
 瞳子は正直にそう答えた。
 いざ性の行為をと思った瞬間、上手くできるだろうか、という疑問が瞳子の脳裏に一瞬よぎった。一瞬であったはずの疑念は瞬く間に広がっていき、やがて結局そのせいで自信喪失した瞳子は、祐巳さまに意思表示をすることができなかった。
「なるほど……」
 瞳子が吐き出した理由に満足したのか、可南子は頷いてみせた。
「確かに、経験が無いと自信が持てないのは仕方が無いのかもしれませんわね」
「あなたも、そうだったのではなくて?」
「うーん、そうかも……?」
 可南子と瞳子、二人でうーんと悩んでみる。
「一応、知識としてはあるんですけどね……やはり、経験が無いと」
 祐巳さまと付き合い始めてから、瞳子はその手の本で学習した。自分を相手に練習したことはある。だけど、所詮自分で自分を責めるというのは練習にはなり得ない。
 誰かを相手に練習できればそんなに苦しむことはないのだろう。だけど、好きなひと以外に、そういう行為に及べる人なんて。
(……いるじゃん)
 目の前に。うってつけのが。
「あなたも、祐巳さまとはその……エッチしたいのでしょう?」
 瞳子は問う。
「え、う、うん。そりゃ、まあ」
「でしたら、初夜に上手くできなくて祐巳さまに嫌われることがないように、練習することが必要だとは思いませんか?」
「そりゃそうだけど、そんな相手が――っ!」
 そこまで言われて、ようやく瞳子が言いたいことに可南子も気づいたらしい。
 正直言って私は可南子があまり好きではない。
 でも、嫌いでもない。
 可南子だって私のことはそんなに好きではないだろう。
 しかし、彼女は乗ってくる筈だ。
「……ねえ、祐巳さまの為ですもんねえ」
 瞳子は挑発するように可南子にそう言う。
「そ、そうね……祐巳さまのためだもんね」
 あっさりとあまりにも簡単に挑発に乗ってきた可南子。
 他人事ながら、将来この女は仏壇や羽毛布団でも買わされるんじゃないのかね、と瞳子は一瞬本気で心配してしまった。


      *


 先攻後攻はじゃんけんで決めた。
(この手のひとはグーばっかりですから、楽勝ですわね)
 かくしてあっさり勝利した瞳子は先攻を選択する。初めから受身になるのは、瞳子の性格には合わないように思えたからだ。
 もっとも、それは可南子にとっても同じだろう。しかしじゃんけんに負けた以上、彼女に選ぶ権利は無い。
「脱いで頂かないと、練習にならないのですけど?」
「わ、わかってるわよ!」
 攻め側の瞳子は服を完全に着た状態でありながら、可南子に一方的に脱ぐように命じる。ああ、この圧倒的優越感といったら!
 瞳子の部屋で裸になるのに抵抗があるのかさすがに少し躊躇いを見せたが、可南子は少しずつ自分の服に手を掛ける。ワンピースの制服を脱ぎ落とすと、その中からはなるほど運動系らしいスレンダーな体がお目見えする。長身であり、痩せていて、それでいて胸がある。それは身長で負け、痩身で負け、胸で負ける瞳子を、優越感のさなかから一瞬でどん底に叩き落した。
(……なーんか、ムカつく)
 なんとなく、苛めてやりたいという欲求が瞳子の中に沸いてくる。
「あらあ、威勢がいのはそこまでですの? まだ脱ぐものがあるのではなくて?」
「――っ!」
 わなわなと身を奮わせる可南子。ブラジャーの後ろに手を回す……が、どうやら恥ずかしさの余りどうしても脱げないようだった。
「脱げないのなら、脱がして差し上げましょう」
「ちょっ、や、やめてよ!」
「抵抗すると、祐巳さまを脱がせて差し上げるときの練習になりませんわ」
 そう言って瞳子は可南子に抵抗を許さない。両手をバンザイさせて、抵抗できないようにする。
 可南子を抱きしめるような形で、瞳子は両腕を回した。ベージュのスポーツブラの後ろを折り曲げて外す。肩を外し、それでも必死に抑えようとする可南子から無理やり奪い取ると、豊満な乳房が顕になった。
「ほら……隠していては、何も勉強になりませんわ」
 慌てて両手で胸元を隠した可南子を、瞳子はやんわりと否定する。片手ずつ両の乳房を隠したそれぞれの手を剥がし、気をつけの姿勢のように腰の脇にだらりと降ろさせる。緊張のためか直立不動の姿勢なものだから、そんな可南子が可愛くて、瞳子にはつい愛おしさのようなものまで感じられてきてしまう。
 淡紅色の乳首。豊満なのに均整が取れていて、支えるものを失ってなお綺麗。
「瞳子さんの手、冷たい……」
 可南子が暖房の効かせた部屋でもまだ迸る、熱い吐息を漏らす。
 胸元を完全にはだけさせたら、次にはあとひとつの下着。
「ゆ、赦して……」
 声を震わせながら可南子が哀願するが、それを容赦していては埒があかない。
 瞳子は容赦を願う声を無視し、ブラと同じ揃えのショーツに手を掛ける。しかし、ひしっと可南子が抑えるせいでそれを脱がせることが出来ない。
「……可南子さん?」
 咎めるように瞳子は名前を呼ぶ。可南子が僅かに涙を流しながら、ふるふると左右に首を振ってみせた。
「だから、それでは練習にならないのですが」
 それでも可南子さんはショーツを強く握り押さえ、ふるふると首を振る。
 埒があかない。
 まさかこんなにも恥ずかしがりやだなどとは思っていなかっただけに、瞳子は困惑してしまう。一体、どうすれば。
 ――いっそ、抵抗できないようにしてやろうか。
 涙を流す、弱弱しい子犬のような目をした可南子を見ていると、そういう考えが頭をよぎってくる。
「抵抗する可南子さんが、悪いんですからね?」
 瞳子は部屋のクロゼットの脇にある小箱から、手錠を取り出す。それが可南子の視界に入るやいなや、彼女は「ひっ!」と、か細い悲鳴を上げた。
 元々はアダルトグッズの類で興味本位に購入したものだが――瞳子はいま、これを買ったことを本当に満足する。こうして、彼女を繋ぎとめることができるのだから。
 窓側のカーテンレールに手錠の輪を繋ぐ鎖を跨がせ、両の輪をそれぞれレールの下に出す。それが指し示す意味がわかったのか、また可南子が首を振る。
「つけなさい」
 有無を言わせない口調。しかし、可南子は受け入れない。
 瞳子は彼女の傍に寄り、無理に手首を枷のほうへと導く。
「負けた貴方に、抵抗の自由はありませんの――」
 それはたかが先攻後攻を決めるためのじゃんけんだった筈だが。
 演技する、可南子に自由を許さない自分。その甲斐があったのか、可南子は抵抗する意思を失い、ただだらりと力なく両手を瞳子の意の儘にした。
 カチリと音がして、枷が彼女の両手首を綴じる。

 ――抵抗する自由を奪われた彼女。
 ――今にも泣き喚きそうな、弱弱しい彼女。

 それが、瞳子の意識することがなかった嗜虐心に火をつけた。
 手早くショーツをずり下ろす。抵抗を考える暇さえ与えない。
「あら、可南子さんったら……まだ生えてませんのね」
 羞恥に顔が染まる。それが、心地よい。
「それなのに、ずいぶんと感じていらっしゃるご様子……」
 両足の付け根に指先をすっと這わせると、それだけで瞳子の片手に溢れんばかりの蜜が纏わりついた。
 まだ性的な行為には何も挑んでいない現状だというのに、この濡れ方は凄い。瞳子はただ感嘆する。そしてその蜜を溢れさせる泉の中へと、指先を差し入れる。
「ふうっ!」
 可南子が陰唇から瞳子の指先が入り込む瞬間、唇を閉じて目をきゅっと閉じた。
 可南子の中は、指先の末端から瞳子の中に押し寄せてくるほどの「熱」が渦巻いていた。熱くて、そして指先をきつく圧迫してくる。指先を一本だけ差し入れてもきつきつで、ぐいぐいと押し付けられてくる。
「はあっ、あああああ!」
 そのせいか、一本だけの指先を軽く前後に揺さぶるだけで可南子は激しく喘ぎ、身悶えた。
 反応が面白くて、瞳子は自分のリズムで前後にくいっくいっと指先を抽送させる。可南子の体が瞳子のリズムのままにぐいぐいと揺れる。乳房がそれに合わせてふるふると揺れる。
「ひうっ、ひっ、はあっ! はっ、ふうっ、ふううっ!」
 いち、にっ、さん。にい、にっ、さん。
 前に後ろに前に、後ろに前に後ろに。指先を前後に三拍動かしては一泊休む。その拍子に合わせてぶるぶると体が揺れて全身に汗が滴り、スタッカートの効いた嬌声が上がる。瞳子の奏でるリズムは徐々に加速していき、始めは70ぐらいのテンポだったそれは、ポップミュージックぐらいの速さになり、より加速していく。
「ひうっ、ひっ、ひっ! ひゃうっ、ひっ、ひいっ!」
 悲鳴とも嬌声とも付かない声。幾度にも往復を続けるその度ごとに音量は増していき、彼女の声のキーは上がっていく。
 数分ぐらいそれを続けるうちに、彼女の声が徐々にビブラートしていく。吐き出すような嬌声は噛み締めるような声に。悲鳴のような嬌声は、瞳子を魅了する艶かしい声に。それは、可南子の絶頂が近いことを物語っている。
「ふうっ、ひあああああっ!」
 ひときわ大きい嬌声を上げて、彼女の体がぐったりと弛緩していく。体重を彼女の両足が支えきれなくなり、カーテンレールが重量に少しだけ軋んだ。
「えっ、ちょ、ちょっ……!」
 彼女の反応は瞳子を大いに喜ばせたが、それは瞳子の嗜虐心の欲求をより増大させることにしかならない。彼女の絶頂は明らかであるのに、動きをやめない抽送に可南子は困惑の表情を見せた。
「や、やめなさいよっ!」
 可南子の命令する声。それが瞳子には心地よかった。
「ううっ!」
 可南子の中に差し入れられる指の本数が二本に増えると、彼女は再び表情を歪ませそして全身を震わせた。
 ぎしぎしとカーテンレールが軋む。壊れてもいいや、と瞳子は思った。
「ひああああっ!」
 右手は彼女の陰唇の中で暴れ回りながら、空いている左手は行為を始める前よりもずいぶん膨らんでいる、陰唇の入り口のやや上部の突起を無造作に摘んだ。やや力が入っていたそれの痛みにか快感にか、可南子は顔を大きく歪ませて悲鳴を上げる。
(ああ、そういえば、抱き合うことの練習じゃなかったっけ)
 瞳子はようやく可南子とこういうことをすることになった経緯を思い出す。
(どうでもいっか……)
 いまの瞳子にはただ貪欲に彼女を貪り、狂わせること以外はどうでもよかった。
 ぎしぎしぎし、とカーテンレールが激しく揺れ軋む。このまま続ければ、カーテンレールは数順分後にか、あるいは数時間にかには折れてしまうように思う。
 折れても構わなかった。理性が失われ、瞳子は狂い、可南子も狂わされる。
 時間の概念さえ消失しようとしている。
 ただ終わりなく瞳子は可南子を責める。可南子もまた、それに喘ぐ。
 二人だけの停滞した時間と、停滞した交歓。外の一月の冷たい日常とは瞳子の部屋だけが切り離され、官能の熱の満ちた世界で二人だけが溺れていた。