■ 志摩子さんは嘘吐きだ

LastUpdate:2005/11/01 初出:しまのり同盟様の企画に投稿

 最近になって知ったことだけれど、志摩子さんは嘘を吐くことがある。
 他の誰でもない、一片の穢れさえ見出すことのできない志摩子さんだから。瞳子や他の誰かにそれを教えたとしても、きっと誰も俄かに信じては貰えないように思う。
 誠実で正直者。何かを偽ることが無くて、いつだって清廉潔白。誰だって志摩子さんに対してそういうイメージを持っていると思う。もちろん乃梨子だってそうだ。だから、志摩子さんを――たとえ志摩子さんに一番に程近い場所に居られる乃梨子がそれを口にしたとしても――嘘つき呼ばわりしたところで、誰だって信じられるはずがないのだ。
(誰にも教えてあげるつもりなんて、ないけれど)
 信じて貰えないからではなくて。そんなことは乃梨子だけが知っていればいいことだから。
 ――志摩子さんは嘘つきだ。
 私だけ。他の誰にも、嘘つきな志摩子さんを、見せてなんてあげないんだから。



 夏が終わって涼しくなるのを待って、私たちは結ばれた。
 夏が嫌とか秋が好きとか――特に何かしらの理由があったわけではなくて。ただ、どちらからも先に思い浮かべる「結婚」という二文字を自分の胸に抱いて、引いては相手に背負わせることの覚悟ができるまでに時間が必要だったから。夏休み中いっぱいの時間を、お互いのことを理解り合うこと、気持ちを確かめ合うことの為に費やしてきた。
 もちろん「結婚」だなんて言っても、法的な意味なんかは何にも無くて。ただ私たちが隠すことなくお互いの関係を「結婚」という確かな形で覚えあうことと、相手のことを伴侶として確かめ合うことだけ。
 けれどもそれがなかなかに難しいのだ。私たちは二人とも、お互いのことを何の衒いも無く素直に「好き」だと言うことができるけれど、何しろその「好き」の感情が互いに同一のものであると信じること、まずそこから理解りあう必要があったから。
 気持ちの「好き」を確かめ合えば、次に始まるのはお互いを求め合うこと。肉欲が総てではない――それは当たり前のことだけれど、それでもお互いに「好き」であれば行為に行き着いてしまうのは、例え女同士であってもとても自然な衝動らしく、乃梨子が志摩子さんの雪の肌から衣擦れの音を奏で響かせるまでにそう長い時間は掛からなかった。
 いちど躰を交歓させることを覚えてからは、暇を作っては度々にお互いを求め合った。
 じめじめした長雨の降りしきる日と、雲が強い風に吹かれてとても速く流れていく日とが交互に続いて、すぐに季節は秋を通り過ぎた。紅葉が街中からすっかり姿を消して、夕日に焼けていく空を見つめている猶予もなく夜の帳が降りきってしまうようになってくる。やがて外套を羽織っていても微かな肌寒さを覚えてくるようになれば、カレンダーを見つめて今年の残された数字を数えるようになるのさえすぐのことだった。
 初めの頃、秋の始まりの頃には抱き合う傍で火照っていく躰を沈めることができずに冷房に縋ったりもしたというのに、今は例え室内であっても暖房を入れなければ生まれた儘の姿になることは困難になっていた。そういう時は一時間だけのタイマーをセットして暖房を点す。――どうせ一度行為の中に溺れてしまえば、真冬の厳しい寒ささえ気にならなくなる。
 抱き合うだけで、とても倖せな気分になることができた。躰を丸めて、ピンと張らせて、お互いに相手の表情や声色を確かめながら探り合う。そうした性的なことは徹底的にリアルな行為ではあるものの、側面では体温を往き交いさせるだけでとても満たされた心地になれるような、幻想的な一面も持っていた。
 ――けれど、その倖せを簡単に求められることに味を占めてしまえば、その分一人で過ごす夜の寂しさは胸を貫くような痛みになって二人の中枢に突き刺さった。
 恋人であれればいい筈だった。それだけで、他に何もいらない筈だった。その気持ちはもう過去のもので、今は片時さえ離れていることが辛くなった。
 乃梨子が先に口にしたような気もする。いや、志摩子さんだっただろうか。
 いつからか再び言葉の端に紡ぐようになった、「結婚」の二文字。
 花燭が欲しいわけじゃなくて。ただ雁字搦めのように、二人一緒に得体の知れない何かに縛られてしまいたかった。



『じゃあ、志摩子さんだけが今は向こうに?』
 電話を通した先から、祐巳さまが驚いたようにそう訊いてきて、乃梨子は正直に「うん」と答えた。祐巳さまは、へぇーと感嘆の息を漏らしたあとに「奇遇だね」と乃梨子に言ってみせた。
「奇遇って?」
『いまね、瞳子ちゃんもひとりで、あっちに居るはずだから』
「成程」
 乃梨子と志摩子さんの関係はもちろん二人だけのもの。でも、恋をしているのは私達だけじゃない。
 なにしろ、こうして乃梨子たちがたくさんの遠回りをすることなく「結婚」の未来に向かって真っ直ぐに歩くことができたのは、他ならぬ祐巳さま方――即ち、祐巳さまと瞳子のおかげでもあるぐらいなのだから。
 私達だけでは、お互いに遠慮しあってしまうから。だからきっと、本当に欲しいものも、本当にしたいことも、何一つ正直に打ち明けあうことなんてできなかったに違いない。それができたのは、私達だけが恋愛をしているわけじゃなかったから。
 乃梨子と志摩子さんがお互いに寄せ合っている想いと全く同じ物を、祐巳さまと瞳子とが同じように抱いていたから。
 恋愛って二人きりだとなかなか大変。でも、祐巳さまと瞳子が居てくれたから。だから色んなことに相談に乗って貰ったり、色んなお互いの未来絵図を情報交換したり。そうして、いまの自分達が紡げているのだ。
「じゃあ、志摩子さんにも教えてあげないと。……ひとりきりで、淋しくしているかもしれないから」
『うん、私も瞳子ちゃんに教えてあげないとね』
 先立って私達は、まず部屋を借りた。お互いを最愛の人として、伴侶として共に未来へと歩く決意をした私達には、まず何よりも一緒に居られる時間が欲しかったから。
 その欲求は、過去の初めには学校で会えるだけでも消化できたものだった筈。なのに、放課後に会ったり、休日にデートしたり。それですら溢れ出る想いの丈を鎮めきれなくなった私達には、もはや「一緒に暮らしたい」という欲求ばかりが募っていたから。
 私達だけなら、きっと何もできなかった。少なくとも、たぶん志摩子さんが高校を卒業してしまうまでは。志摩子さんが高校を卒業してしまいさえすれば、ひとり暮らしを親に願ったり、その為に部屋を借りたりするのも不自然では無いのだろう。
 でも、志摩子さんの卒業までなんて待てはしなくて。
 欲望が鬱積していたのは私達だけではなくて、祐巳さまたちも同じ想いを抱えていて。向こうも同じで、祐巳さまの高校卒業なんて待っていられない。お互いに、二人だけならそれでも、きっと時間が流れていくのを待つことしかできなかった。
 四人居たから――だから、色々と悪巧みもできたのだ。
「いよいよお互いに、同棲生活が始まるんだね」
『……うん、そうだね』
 そう訊くと祐巳さまは少し弱腰になったけれど、それでもやっぱり嬉しそうだった。



 私達と祐巳さま達は、お互いに同じマンションの同じ階に部屋を借りた。リリアンから程近い、趣味のいい外観のマンション。部屋は隣同士の902と903で、広さは結構あるけれど1DK。
 もちろん高校生の私達が普通に部屋を借りるなんてことできる筈が無い。部屋を借りるにあたって、まず私達は瞳子を通じて祥子さまに助力を求めた。
 本当は、誰かに迷惑を掛けたくなんて無かった。でも、もう未来への欲は抑えることができなくて。そんな気持ちの何もかもを吐露して、私達は祥子さまに縋ったのだ。
 祥子さまは快諾してくれた。恋仲の祥子さまと令さまとが(二人が恋仲であることを、私達は知らなかったけれど)卒業されたら一緒に住む予定の小笠原のマンションの部屋の隣を、二部屋無償で貸してくださったのだ。
「気持は痛いほど分かるから……だから、そういうことなら、どうか手伝わせて」
 そう言って祥子さまは、乃梨子たちの無茶なお願いに対して嫌な顔ひとつせずに、応えて下さったのだ。
「とりあえずは私の個人的な部屋として借りておいて、乃梨子ちゃんと瞳子ちゃんが高校を卒業した頃に、改めてそっちの名義で借りなおしてくれたらそれでいいわ。家賃もそれ以降から分だけ払ってくれればいいし――」
 仕事が早い祥子さまは、てきぱきとその為に尽力してくださって。そうしてお願いしてから僅か数日の間に、祥子さまと令さまの新居予定の901の隣の二室の鍵が、私達の手に渡されてきたのだ。
 どうして、そこまでしてくださるのですか。そう、乃梨子は祥子さまに、個人的に訊いたことがある。すると祥子さまは、少しだけ不思議に笑ってみせてから、あなた達の為では無いわ、と漏らしてみせて。
「令のことが一番好きだけれど。……祐巳や、乃梨子ちゃんとも、一緒に生きて行きたいから」
 そう、言って下さったのだ。



『……乃梨子ちゃん、緊張してるの?』
「えっ? あ……」
 祐巳さまの声ではっと我に帰る。電話中なのをすっかり忘れて、自分の中での思考に囚われてしまっていた。
「すみません、少し、考え事をしていました」
 考えなければならないことはたくさんある。考えてしまうこともたくさんある。すぐに考えごとに囚われてしまうのは、それが倖せな思考だから。あるいは、一緒により倖せになるために必要なことだから。
『ああ、そうだ。すこし長電話になってもいい?』
「何でしょう?」
『えっと、結婚式のことなんだけどね――』
 花燭なんて、乃梨子も志摩子さんも、別に欲しいとは思ってなかった。けれど、そんな私達にそれを熱心に薦めてきたのは、他でもない祥子さまだった。聞けば祐巳さま方もその気なんて全然無くて、それでも祥子さまに強く薦められれば、祐巳さまには断ることもできなかったというわけだ。
 ――どうせなら一緒に挙式してしまいなさい。そう祥子さまに言われて、祐巳さん達の結婚式に私達も巻き込まれる形になってしまったのだ。
 結婚式といっても、もちろん小さなもので。小さなケーキ屋さんを半日だけ借りて、親しい友人だけを招いてするパーティみたいなもの。実際に会場のお店を乃梨子たちの意見も聞かずに勝手に押さえてしまった祥子さまは、お店を借りる用途をただのパーティとしたらしいし。
『一応、予定通り再来週の日曜日ってことで。乃梨子ちゃんと志摩子さんの都合は大丈夫だよね?』
 祐巳さまが改めてそう確認してきて、乃梨子は思わず小さな失笑を漏らしてしまう。
「それは大丈夫です。……だって店を予約されてしまっては、今更拒否もできませんし」
『あはは……それはそうかも』
 祐巳さまも、紛らすように苦笑を漏らしてみせた。
『それで、招待客なんだけど。――やっぱり、誰も呼ばなくていいの?』
 少し訝しそうに祐巳さまがそう訊いてきた。
「はい、私は特に。私が呼びたい人は、みんな瞳子が呼んでしまうと思いますから」
『そっか、同じクラスだもんね』
「ですね」
 可南子さんを始めとして呼びたい人がいないわけではない。でもリリアンにおける乃梨子の友達は、総じて同時に瞳子の友達でもあるから、だから改めて乃梨子のほうから声を掛ける必要は無いだろう。
『ん、了解。……志摩子さんはどうだか、わかる?』
「そればかりは、やっぱり志摩子さんに直接訊いて頂かないと……でも、多分私と同じだと思います」
 乃梨子にしても志摩子さんにしても、元々友達は多くない。それは私達が他人に求めることをしないから。
 乃梨子の友達は瞳子の友達で、志摩子さんの友達はきっと祐巳さまや由乃さまの友達だ。だから、乃梨子や志摩子さんだけが改めて呼ぶ必要のある人なんて、きっと見当たらない。
 乃梨子も、そして志摩子さんも。人数は少ないかもしれないけれど、いつでも温もりを感じられる場所に、とても大切な人たちが居てくれるから。満たされているから、だから他に何も求めることをしないのだ。



『それじゃあ、また明後日に学校で。ごきげんよう』
「ごきげんよう、祐巳さま」
 それから後、当日のことなんかを幾つか打ち合わせして、相手方から電話が切られた。ツーツーという無機質な音を耳に確かめながら、携帯電話を操作して、こちらからも通話状態を解除する。
 電話を終えると少しだけ疲れた気持になってしまって、整理中の自分の部屋のダンボール群のうちの1つに乃梨子は背を掛けて体重を預けた。
 倖せな日々を想うことは楽しい。倖せを得るために色々計画を練ったり打ち合わせたりすることも、やっぱり同様に楽しい。それでも――それでも、ほんの少しだけ、怖い。
 気持を確かめ合って、素肌と素肌とで躰を重ねて。夢見たことをひとつ現実として手にするたびに、少しずつ貪欲になっていくことを止められなかった自分を知っている。
 顔をあわせるだけで、電話で声を訊くだけで何日も倖せを疑わずに居られた頃の自分は、もはや遠い。今ではただの一時でさえ離れていることが、辛い。共同生活のために、こうして菫子さんの部屋から自分の荷物を運ぶためにたった一日、志摩子さんの傍から離れるだけでさえ辛いというのだから。
 倖せを手に入れ始めたばかりの頃には、その倖せを失うことばかりがただ怖かったのに。
 今は――これ以上倖せになることも、同じぐらいに怖い。
 なかば放心気味になっていると、けたたましい電子音が乃梨子を現世に引き戻した。わわっと慌てながら確認すると、まだ手に抱いた儘でいた携帯電話が着信を告げていた。
「……志摩子、さん?」
 通話ボタンを押して電話に出て、乃梨子は通話先の相手にそう訊く。誰からの電話であるかは画面を見るまでもなく、たったひとりの特別な人のために割り当てた着信音で明らかだったから。
『ああ、よかた――無事だったのね、乃梨子』
 電話先でその特別な人は、盛大に安堵の息を漏らしてみせたのだ。



『心配したのよ乃梨子、電話してもずっと話し中だったし、何かあったんじゃないかって』
 電話先で、本当に心配そうに志摩子さんがそう言ってくる。
「そんな、荷物を纏めに家に帰っただけなのに、何事も起きるわけないって」
『でも……帰りの電車で事故でも起きたんじゃないかって、最近物騒だし……』
 電話が繋がらないだけなのにそれは、さすがに飛躍しすぎだと思う。それでも電話先の志摩子さんはいたって真面目な様子で、本当に心配そうな口調で訊いてくるから。だから、乃梨子にはそんな志摩子さんの姿がとても可笑しくって……同時に、嬉しかった。
「……うん、ごめんね、心配させて」
 もちろん乃梨子は何も悪くないのだけれど、心から正直に零れ出るようにそう口に出していた。
「でも、そんな事故なんてあったら、まずニュースに流れると思うよ?」
『だって、新居にはテレビがまだ無いし……』
 志摩子さんの口から紡がれた「新居」という単語が、乃梨子の体温を僅かに上昇させる。
『……ごめんなさいね、片付け中だと思うのに、電話なんかしたりして』
「ううん、ちょうど手を休めていた所だったし」
 その分まだ片付けの完了には程遠いのだけれど。
「志摩子さんこそ大丈夫? そっちは何も無い?」
「ええ、もちろん大丈夫よ? だから心配しないで」
 ――片付け頑張ってね。おやすみなさい。
 そう言い残して志摩子さんからの電話は切れる。



 タイミングよくホームに入って来た、ぎゅうぎゅうにごった返した赤い電車に、乃梨子は器用に身を滑り込ませた。満員電車は嫌いだけれど、この時間の電車はだいたいそうだから選ぶこともできはしない。どうせ十数分の我慢だと思えば、それもそんなに苦痛に思わないようになってきたのは、都会に適応してきた証拠だろうか。
 人を難民か何かのように詰め込むだけ詰め込んだ電車は、ギギギと重い軋みを上げながらゆっくりと加速していく。
(――嘘ばっかり)
 乃梨子は心の中で舌打ちする。
 大丈夫、なんて嘘だ。
 志摩子さんは嘘吐きだ。
 志摩子さんはあんな性格だから嘘なんか口にしないと思われがちだけれど、あんな性格だからこそ、決して少なくは無い数の嘘を吐く。
 親しくなって乃梨子に平気で嘘を重ねるごとに、嘘を上手く口にできるようになっていく志摩子さんがいる。志摩子さんの口から嘘を聞かされるたびに、それを見破ることにばかり長けていく乃梨子がいる。
(今日のだって、志摩子さんは本当に平然と嘘を吐いた)
 言葉を乱すこともなく、抑揚も無く、本当にいつもどおりの口調の儘で。
 それを見破ることができたのは、志摩子さんが先に電話を切ったから。
 電話を切ることは、その時繋がれたものを断つこと。いつだってそれができない志摩子さんが今日に限ってそれができたのは……きっと、そういうことなのだろうから。
 ――志摩子さんは嘘吐きだ。
 そんな、すぐ嘘に縋る志摩子さんが……乃梨子は嫌いでは無いけれど。



 案の定、嘘を見破られたとは欠片も思っていなかったのだろう、鳴らされたチャイムに対応して玄関口に姿を見せた志摩子さんは乃梨子の姿を確かめるや否や、目を見開いて驚いてみせた。
「ただいま、志摩子さん」
「え? あ、の、乃梨子?」
 呂律の回っていない志摩子さんの頬に、冬の冷たい風にさらされてきた両手をあてがう。
「つ、冷たっ――の、乃梨子?」
 抗議の声を上げる志摩子さんを、けれど乃梨子は取り合わない。
「志摩子さん、また嘘を吐いた」
 そう言われて、志摩子さんははっとした顔になる。
「嘘を吐かないって約束したよね? 私に志摩子さんの嘘が伝わらないと思った?」
「乃梨子……」
 責めるような口調。実際、責めているのだけれど。
 嘘を吐かないと約束した。隠し事をしないと約束した。
 それでも、志摩子さんは嘘を吐くのを止めなかった。
 もちろん志摩子さんはそんな約束なんか無くたって自分のために嘘を吐いたりしない。遊び半分や冗談交じりの嘘も吐かない。
 だけど、乃梨子に限らず好きな人のためなら、平気で嘘を吐くのだ。
「ごめんなさい、乃梨子」
 志摩子さんが頭を下げて謝ってくる。
「じゃあ、もう嘘は吐かない?」
「……」
 乃梨子が改めてそう訊くと、志摩子さんは言葉を詰まらせた。
 嘘は吐かない、そう過去に何度か約束させた。でもそれは志摩子さんが進んで約束したことじゃなくて、乃梨子が無理に迫って約束させたようなものだった。
「……約束できないならそれでもいいけれど、でもね」
「ひゃうっ」
 再度志摩子さんの頬に手を当てて、ぎゅっと抓む。
「嘘を吐いても、私はちゃんと見破るからね?」
 にっこりと極上の笑みを作ってみせて。乃梨子はぎゅっと志摩子さんの頬をつねり上げながら、そう言ってやったのだ。



 部屋の中に入って心を落ち着けると、すぐに冬の寒さは肌から感じられなくなる。部屋についていた暖房のスイッチは入っていなくても、躰を裡から和らげていく温かいお茶と、温かな人が居てくれること。それだけで、心から躰中が癒され、満たされていく不思議。
「淋しければ、淋しいって、言ってくれればいいのに」
 さっきまでみたいな咎める口調ではなくて、ただ正直な気持から乃梨子はそう口にする。
「そうね……ごめんなさい」
「言ってくれた方が、私も嬉しいから」
「乃梨子には甘えてしまっていいのだと判ってはいる筈なのに、なかなか慣れないのよ」
 志摩子さんは穏やかに微笑む。
「でも……結婚するのだから。こういう遠慮してしまう癖も、正さなくてはいけないわね」
 そう志摩子さんが言ってくれることが、乃梨子には堪らなく嬉しかった。他でもない志摩子さん自身から、その体重を預ける人間に認めてもらえていること。伴侶として認めてもらえていることが何よりも嬉しかった。
「甘えてくれたほうが、私も嬉しいから」
「……結局乃梨子はここへ来たのだから。だから今回も結局、甘えてしまったようなものかしら」
「それは……そうかも」
「私がどんなに心を隠しても、乃梨子は見透かしてしまうのだから。だから私も、正直になる為の努力をしなければいけないわね」
 それは本当に慣れないことだけれど、と志摩子さんは付け加えた。
 志摩子さんは誠実な人だけれど、必ずしも正直な人ではないから。例えば、志摩子さんは当の志摩子さん自身に対しては全く正直ではない。ただ自分の心の儘にあることが誰か他の人になって僅かにでも負担になったりするかもしれない、それだけのことで直ぐに自分の心に対して偽れてしまう人だから。
 だからこそ、そんな志摩子さんに正直な気持を吐露させて、変えていかなければいけないと乃梨子自身思っているわけだけれど。
「志摩子さんが淋しい時には、私だってやっぱり淋しいのだから」
 電話では満たせない。相手の傍に身を寄せることに依らなければ不安でならないのは、乃梨子も同じだから。
「乃梨子……」
「淋しいから、私も志摩子さんとこっちで一緒に寝たかったから。だから、飛んできてしまったの」
 それが多分、乃梨子にとって正直な気持ち。志摩子さんの為だとか、嘘を吐いたとか、そういうのはきっと全部後付けの理由でしかなくて。きっと何より乃梨子自身が、志摩子さんに会いたかったから。
 一人で生きられるようにできていない。離れていられるようにできていない。だから。
「その、乃梨子……寝るってことは、今日も、するの?」
 志摩子さんからそんな言葉が漏れて。咄嗟に志摩子さんの表情を確かめると、見事に朱に染まっていて。
「するなら、先にシャワーだけでも浴びたいのだけれど……」
 もじもじと落ち着かない様子で志摩子さんがそう言う。
 そんな愛おしい様が、また乃梨子の脳髄を一瞬クラッと誘惑させた。
「え、えっと、私、そんな、つもりじゃ」
 慌てて乃梨子がそういい繕おうとすると、志摩子さんは「えっ」と躊躇いの声を漏らして、しゅんと瞬間少し悲しそうな表情になる。肩を僅かに落として、上目遣いに乃梨子に再度確認してくる。
「しないの……?」
 もちろん、涙目になり始めた志摩子さんにそんな言葉を囁かれて、抵抗できよう筈も無くて。
 あまりのその誘惑に脳髄が灼ききれる瞬間を、初めて乃梨子は感じた気がしたのだ。



「正直にならなければいけないのは、乃梨子のほうもではないのかしら?」
「……うう、今は反論できない」
 寒さを凌ぐために、厚く着込んでいた服をひとつひとつ脱ぎながら、乃梨子は必要以上ににこにこしながら志摩子さんが漏らしてくるその言葉を、甘んじて受け入れるしかなかった。
 志摩子さんが会いたい時は、乃梨子も同様に会いたいと思ってる。それと同じように、志摩子さんが躰を触れ合わせたいと思っているときには、やっぱり乃梨子もそう思ってしまっているのだから。
「乃梨子が隠そうとしたら……まるで私だけが、その、したがってるみたいで、いやらしいみたいじゃない」
 そうすぐ後ろの近い距離から言葉が掛けられて、背中から乃梨子は抱き竦まれてしまう。
 布地を通さない、リアルな体温。シャツを脱いでからは刺すように感じられた尖った冬の冷気の冷たさは、その温もりにたちどころに霧散させられてしまう。
「とりあえず、脱ぎ終わるまで待ってよ……それとも、それさえ待てない?」
「……意地悪なこと、言わないで」
 背中から絡められた志摩子さんの両手を、ゆっくりと乃梨子は解いてから残された衣類を脱ぎに掛かる。コートを着ていたことさえ除けばほとんど同じぐらい厚着をしていた筈の志摩子さんが、いそいそと身に纏っていた物を落として裸になった気持ちがわかってしまうから。だから、そんな意地悪なことも言いたくなってしまう。
「それにその言い方だと、まるで志摩子さんがいやらしくないみたいに聞こえるけど?」
「そ、そんなっ……!」
 志摩子さんの頬がかーっとなって、より濃い朱色に染まって。
「私は別に、いやらしくなんか……」
 最後は消え入りそうな声になりながら、抗議の声を上げる。
「本当に?」
「……本当よ」
「そっか」
 じゃあ、と乃梨子は前置きして志摩子さんの体を抱き竦める。
「本当にいやらしくないか、確かめてみないとね」
 抱きしめた腕の中で、より一層志摩子さんの体温が熱くなるのを、心地良く思いながら。



「はあっ……!」
 それから僅か数分後には早くも熱い吐息が志摩子さんの口元から漏れて、乃梨子はしてやったりの気分になった。実際にしたり顔で志摩子さんの顔を覗き込むと、志摩子さんがハッとして慌てて口元を押さえてみせる。でも、もちろん今更口を塞いでしまっても漏らした息を撤回することなんかできはしないのに。
「いやらしく、無いんだよね?」
「も、もちろ……んっ!」
 この期に及んで、まだ自分の嘘に縋ろうとする志摩子さん。
 もちろん――そんな嘘つきな志摩子さんが乃梨子が嫌いであるはずが無いのだけれど。
「んぅっ……、は……あっ」
 口元にあてがわれたはずの志摩子さんの左手の封印は、あえて乃梨子が外さなくても次第に解けてくる。
 たぶん、志摩子さんの躰を追い詰めることは、自分で熟知した自分自身の躰を追い詰めることよりも楽なこと。弱点が密集している箇所に指先を這わせるだけで、どこが弱点で、どこが志摩子さんの躰を狂わせるのにお手軽なポイントかを、常時志摩子さん自身が教え導いてくれるのだから。
「ひああっ……! あっ……!」
 たぶん、もう声を抑えようという意思さえどこかへ飛んでしまったのだろう。いつものように高く、そして淫らな嬌声が志摩子さんの喉から漏れ始める。その嬌声がより乃梨子を満たされた気持ちにさせて、志摩子さんを苛める指先の動きをより大きく、大胆なものにさせる。
「ふあぁっ……の、乃梨子……!」
「もう、我慢できない?」
 そう訊くと、目の前で志摩子さんはこくんと頷いた。
 あるいは、志摩子さんは追い詰められると逆に正直者になったりする。
 もちろん――乃梨子は、そんな正直者な志摩子さんも大好きだけれど。
「もう、ホントに……志摩子さんったら、いやらしいんだから!」
 乃梨子がそう言うと、その言葉の責めにか、あるいは下腹部に絶えず送り込まれる指先の刺激にか、甲高い嬌声と同時にびくんっと躰を震わせて、志摩子さんは大きく背を反らせる。
 快感に躰を震わせる志摩子さんを、挿し入れた指先や触れ合わせた躰から感じることは、その感動を共有することでもあって。まだ行為を覚えたてだった頃には、することよりも、してもらうことのほうが好きだった筈なのに。今は、乃梨子の動き一つ一つに翻弄されて、大好きな人が狂う方が好きかもしれないとも思う。
 それは気持ちの問題だけではなく、純粋に乃梨子にとっても気持ちのいいことであるから。淫らな姿であって、弱りきった姿を唯一晒して貰える存在だと認めてもらえていることであって、こうして指先ひとつで屈服させることを赦されていることでもあるから。
「ふうっ……んぁっ! はぁん……っ!」
 達してもなお乃梨子の指先の責めは止まらない。志摩子さんの敏感な箇所を執拗に責め続ける指先に、絶えず志摩子さんの上体は身じろぎ、脳髄を溶かすような甘い嬌声は絶え間なく部屋の中に響き続ける。
「んはあっ……! ゆ、許して、のっ……乃梨子、っ……!」
 でも、もちろん乃梨子はそんなこと、取り合わないのだ。
 ――だって、志摩子さんは嘘つきだから。
 だから、そんな嘘に、乃梨子は惑わされたりしないのだ。



    ねぇ、志摩子さん。
    こんなにも心が満たされた心地になれて。
    大きい気持ちで、すぐに心が埋め尽くされてしまうのは。
    好き、という気持ちだけじゃなくて。
    きっと、そんなにも乃梨子を惑わしてしまう、志摩子さんのせいなんだから。



 再度志摩子さんの躰がガクガクと揺れる。
「の、乃梨子、もう無理だから……っ! 許して……っあぁ!」
 ほら、また志摩子さんったら、嘘ばっかり。

 

 

 

 

 written by -NekoDaisuki- Keima.