■ 04−遣らずの雨

LastUpdate:2007/04/29 初出:web(mixi)

 背中の遠くから自動ドアの駆動音がする。誰かが開いた図書館の玄関口向こうから、うっすらと雨の匂いがしてくるのに志摩子は気づいた。(傘を持ってきてよかった)と、彼の返答を待ちながら、そんな事さえ考える心の余裕があるのは志摩子自身にも不思議でならない。
 変な緊張も感情の奔流もない。素直に出た言葉に、特別な意味なんてきっと無い。
「……そうですね」
 だからだろうか。やがて彼も自然体のままで、志摩子の言葉に頷いてくれた。
「ただ、志摩子さんの好きなタイプの映画が、ちょうど上映されていますかどうか」
「別に……私は、何の映画でも構わないのですが」
「ですが、初めて映画館で見る映画は、きっと特別になります」
 力説に気圧されて、志摩子は思わず怯む。
「こういう映画が好き、とかってあります?」
「うーん……」
 祐麒さんの言葉に志摩子は考えさせられる。好きな映画のタイプだなんて、今まで考えたことも無かった。
 好きな映画を見る、ということ自体が初めてだった。映画といえばテレビでたまに父や母と一緒に見るだけのもので、故に志摩子にとっての映画とは、テレビ欄の都合や父母の意思によって選ばれるものでしかないからだ。
「……嫌いな映画のタイプ、でしたら」
「それでも結構ですよ。どのようなのが?」
「先程も申し上げましたが、怖いのはちょっと。……人が死んだり、暴力的なのはあまり好きではないかもしれません」
「なるほど」
 志摩子の言葉を受けて、祐麒さんが顎に手のひらを宛がって考え込む。
 祐麒さんが、志摩子の為に真剣に考え事をしてくれる。そのことは、志摩子に不思議な嬉しさを覚えさせた。と同時に、なんだか自分なんかの為にそこまでさせてしまうのが申し訳ないような気持ちも、どこか伴わせた。
「……祐麒さんは、何をご覧になる予定だったのでしょう?」
「俺ですか?」
「はい。先程、ご友人と一緒に見る予定だった、と」
 深く考え込みそうな祐麒さんを牽制するように、志摩子はそう訊く。祐麒さんはテーブルの下に置いていた皮製のトートバッグから何かを取り出すと、志摩子のほうに提示して見せてくれた。
「ファンタジー映画、でしょうか?」
 テーブルの上に提示された前売り券の図柄を見て、志摩子はそう漏らす。祐麒さんも頷いて肯定してくれた。ファンタジーなら私もきっと嫌いではないから、この映画でちょうどいいと志摩子は思った。
「ですが、この映画はお勧めできません」
「どうしてです?」
「映画自体が三部作構成で、これがその最後のお話なんです。……まさか最終話だけ見るわけにもいかないでしょうから」
「それは、そうですね……」
 確かに祐麒さんの言う通り、前提条件を満たしていないのでは仕方が無い。本当は自分の希望よりも祐麒さんの希望を優先したい気持ちが志摩子にもあって、それだけに残念にも思えてしまう。
 前売り券があるのに、それとは別で付き合わせるためだけに鑑賞券を祐麒さんにも買わせてしまうことも忍びなくて、映画を見たいという欲求自体が心の中で早くも衰え始めているのを志摩子は認めずにはいられなかった。
 興味は勿論ある。けれど志摩子にとってのあらゆる欲求は常に、誰かに迷惑を掛けてまで望むものではない。――それだけに。
「……あら? これって」
 ふと、前売り券を見ていて志摩子は気づく。図画ばかり見ていたから気づかなかったけれど、一緒に印字されている映画の主題に見覚えがあるように思えたからだ。
「これは……もしかして、原作があるのでは?」
「ご存知なのですか?」
 驚いてそう訊く祐麒さんに、志摩子は頷く。
「父の書庫に、確か原作が。父の蔵書でファンタジーのお話は珍しくて、私も何度も読んだことがあります。確か、とても厚い……というより、殆ど百科事典ぐらいの極端に大きい本ですよね?」
 志摩子の言葉に、祐麒さんの見せる驚きが一層強いものになった。
「そうです。……ここの図書館にもあると思いますが、あの大きさの本を個人で所有している方がいらっしゃるだなんて」
「ですよね。私も初めてあの本を見たときには、目を疑いました」
 吹き出すように、祐麒さんが声を上げて笑って見せて。つられるように志摩子もまた笑んだ。
「……なので、祐麒さんがご覧になりたい映画で問題無いと思います。原作を読んでいますので、映画のお話が途中からでもきっと大丈夫でしょうし」
「判りました。……すみません、なんだかこちらの都合で」
「私も祐麒さんが見たかった映画と、同じものを見たいですから」
「正直、助かります。チケットの期限が金曜日まででしたので、この休みのうちに使えないと無駄にしてしまう所でした」
「そうなんですか……」


 ―― そうなら、そうと言ってくださればいいのに。


 一瞬心の中でそう思う。最初からそう言ってくだされば、志摩子は何も迷わずに従うことができたし、別に私は話の流れが判らなくても気にしないのに……。
 でも……それが祐麒さんの性分なのだろう。
 自分のことよりも他人のことを優先してしまう。そんな性格……志摩子も同じだから、真実その性格が美徳ではないことをよく知っていた。
 自分を大切にすることは何一つ恥じ入ることではないと、今は正しく理解している。だからそう生きることに正直であれる人が、志摩子はとても好きだった。たとえば父のように、あるいはお姉さまのように。
 どちらかといえば自分みたいな、ともすれば卑屈のような性格の人は嫌いで。
 なのに……どうして、彼のことだけは。

 そんな志摩子の嗜好の枠を跳び越して、不思議なほど好意的に見えてしまうのだろう。
「そうそう。これ、ペアチケットなんです」
「……え?」
 少し、考えに陥っていたから。不意をつかれるようで、思わずとぼけた返答を思わず返してしまったけれど、それでは……。
「あ、あの。チケットの半額を」
「受け取れません。元々無駄になるものだったのですから、有効利用して頂けるだけでもありがたいですよ」
「ですが……」
 こうしたことには慣れていないから。あくまでも食い下がろうとする志摩子だけれど、ただ淡々と微笑みで返してくる祐麒さんにはどうしても勝てなくて、結局は根負けさせられてしまう。映画を見に行ったことがないから相場が判らないけれど、缶の緑茶を奢って頂くのと金額の桁が違うことぐらいは、志摩子にも容易に想像できた。
「俺も、一緒に見てくれる人ができて、嬉しいです」
「……映画のことを何も判らないのに。私なんかで、いいのでしょうか」
「そんなの関係ないですし、本当に嬉しいです。……明日小林が聞いたらきっと羨ましがります」
 微笑む祐麒さんの表情に魅せられて。志摩子はもうそれ以上、何も言えなくなってしまう。


 言えなかった言葉を呑み込むと、なんだか妙に喉が渇いているのに気づいて。お茶の缶を口につけると、まだ十分な温もりが喉から躰に浸透していく。
『俺も、一緒に見てくれる人ができて、嬉しいです』
 ただその言葉に。
 何か特別な意味を期待しているような自分が居るようで。整理のつかない不思議な気持ちの中、ただお茶の淡い甘さだけが、志摩子には確かなものとして感じられた。