■ 11−遣らずの雨
携帯電話の先から聞こえてきた言葉。
片言だけでも、それが他でもない彼が紡いだ言葉だと、志摩子には判った。
もしかしたら誰かを好きになるというのは、そういうことなのだろうか。彼の凛とした表情も、体躯も、声さえも特別になって志摩子の心には届いてくる。携帯電話を介した機械的な声、まして僅かに零れた言の葉の欠片でさえ、志摩子にはそれが彼――祐麒さんの声だと、すぐに判った。
「あ……」
自分から電話を掛けたのだから何か言わないといけない。そうは思うのだけれど、志摩子は途端に口篭ってしまう。
(……この声をずっと、聞きたかった)
思考が儘ならない。心に感動だけが溢れてきて、打ちのめされるように、かぁーと胸の裡で熱を持ち始めてくるのが判る。
逃げ出した言い訳とか。謝罪の言葉とか。
打ち明けてしまった気持ちのこととか。
……返ってきた返事に籠められた、祐麒さんの真意とか。
言いたいこと。言わなければいけないこと。訊かなければならないことは山のようにある筈なのに、志摩子は実際に言葉に出すことも、頭の中で言葉を整理することさえ覚束なかった。
『あの』
「は、はい」
『……俺から、いいですか?』
黙りこんだ志摩子を見るに見かねたのか。志摩子に代わって、電話口の先から温かな声で祐麒さんがそう訊いてくる。
機械的なはずなのに、確かな温かさを伴う彼の声。電話という機械のせいなのか、まるで耳元でそっと囁かれているような錯覚にも陥って、志摩子の恐慌はより深いものへとなっていく。
志摩子はすぐに、コクンと頷いて返事をして。
……やがて、それでは何も伝わらないことに気づいて、慌てて「ど、どうぞ」とだけ答えた。
電話口の先で、静かに息を継ぐ音が聞こえる。
『本当は、俺から先に言ってしまいたかったのですが』
その一言だけを言ってから、祐麒さんも静かに言葉に詰まる。
「……何を、でしょう?」
『ええと、その……好き、ということを、でしょうか』
志摩子が訊くと、恥ずかしそうに。
――見えなくても伝わってくるぐらい照れくさそうに、祐麒さんはそんな言葉を伝えてきた。
頭の中に灼き付いていた先程のメールの文面が思い出されてしまって、志摩子のほうもなんだか顔が熱くなってくる。けれどメールの文面で志摩子の心を打ちつけた『好き』の文字以上に、彼の声で直接囁かれる『好き』の言葉は、より深く志摩子の心を拉いで止まなかった。
『俺……志摩子さんのことが、好きです』
まるで辛いことを吐露するかのように。祐麒さんはその言葉を口にする。
痛々しいように告白された言葉は、けれど志摩子に疑問や不安を抱かせない。
却って――痛々しく吐き出された気持ちが祐麒さんの正直すぎる気持ちだと判ってしまうから、志摩子はそのまま電話の先で頷いてしまうぐらいだった。
「私も……祐麒さんのことが、好きです」
意図したわけでもなく、志摩子の語調も少しだけ彼に似たものになる。
誰かを好きになることは、とても純粋で綺麗な感情だと言われているけれど。本当は……表層に満たされた綺麗事を全部翻してしまうと、後には独占欲だけが残る醜い感情なのかもしれない。
彼を。――祐麒さんだけを、求めて止まない心がある。
人を愛することは単純に綺麗な感情の筈なのに。その裏の独占欲に潜む心に気づいてしまうと、愛することも、求めることも、全てがただ疚しい心のようにも思えてしまって、それが志摩子には少し堪えた。
「私、どこか……おかしいのかもしれません」
『え……?』
「だって私、祐麒さんから『好き』と言って頂けて、嬉しくて仕方ないはずなのに。なのに……」
――なのに、心は酷く不安で満たされているかのように、落ち着かなくて。
そのことを志摩子が訴えると、祐麒さんは電話口の先で不思議と納得した様子で「そうだね」と答えてみせた。
『人を好きになるって……本当は、結構怖いことなのかもしれません』
言われて、祐麒さんの言葉に志摩子は(ああ)と納得する。
そうだ――きっと私は、怖いんだ――。
祐麒さんを想うと、心がまるで自分の物ではないかのように、儘ならなくなる。
心が自由にならなくなると、今度は身体までもが自由にならなくなってしまう。
例えば、雨の中のことのような。
……反射的に、彼に口吻けてしまった時のような。
「――私、今度は祐麒さんに何をしてしまうか」
『え?』
志摩子は心の不安を正直に訴えたつもりだった。
『あ、はは、あははは……!』
けれど、祐麒さんは志摩子の心を知ってかしらずか、なぜか笑い飛ばしてしまう。
「な、なんで笑うんですか、そこで……」
『あはは……うん、真面目に言ってるんだよね、ごめんね』
ごめんね、と謝ったあとにも。祐麒さんが電話口の向こうで、声を潜めながらもまだ笑いを漏らしているのが志摩子にはしっかりと聞こえていた。
「……私、そんなにおかしいことを言いましたか?」
少しだけぶすっとした口調で、志摩子は言ってしまう。
『うん、少しね。……えっと』
少しだけ、電話口の先で祐麒さんが躊躇う。
『えっと……その台詞は、俺こそが志摩子さんに言うべき言葉かもしれません』
「そうなんですか?」
『ええ』
端的に答えてから。
――俺は男ですから、と。
祐麒さんは躊躇いがちに、小さく付け加えて答えた。
「あ……」
その言葉の意味が判らないほどにまで、志摩子は恋愛に疎いわけではなかった。
意識していなかったけれど。一瞬、急にとても疚しい想像を掻き立てられて、ぶんぶんと頭を振って志摩子はその考えを振り払った。
『……すみません。まだこうして親しくお話してから半日しか経っていないのに、言っていいことでは無かったかもしれません』
「あ、いえ! ……言って下さったほうが、私も嬉しいですから」
隠されるよりは、素直に気持ちを吐露されるほうが何倍も嬉しいから。
そう答えてから。――そっか、と志摩子は妙に納得してしまう。
ふと、心にいちど振り払った想像を、もう一度真摯に思い浮かべた。
(私は彼が好きで。彼は私なんかを……好きと言って下さって)
好き合う同士であるのなら。決して考えないでいいことではないと、そう思えたからだ。
「まだ半日なんですね……」
同時に、祐麒さんが言った『半日』の言葉にも、志摩子は不思議な違和感を覚えていた。
そう、まだ半日……たった半日。
半日よりも前の私は、まだ祐麒さんに特別な感情など一切抱いてはいなくて。祐麒さんと何度かお会いしたときにも、祐巳さんの弟であること以外に特に想ったこともないというのに。
嘘みたいに、信じられない。まるで半日以上前の過去が、遥か遠い昔のことであるかのように、まるで実感を伴わない形でしか志摩子には感じられない。
『今日は……もう切ります。時間も時間ですし』
「あ、はい」
暗闇にも完全に順応した視界で壁時計を見ると、短針はもう『3』の数字を通り過ぎていた。
『切ったからといって、眠れる気もしないのですけどね』
「……それは、私もです」
心がこんなにも揺さぶられているのに。
今の状態のまま布団の中に潜っても、どうして眠ることができるだろうか。
『では、おやすみなさい』
「あ、はい。おやすみなさい」
切られるまで、少し寂しい気持ちで電話を耳に当てていたら。
『――次にお会いしたときには、俺からもさせて下さいね』
静かに、そんな言葉だけを残して。
彼からの電話は、静かに切られたのだった。
案の定、布団の中に入っても、眠ることは叶わない。
どうやっても眠れないと判っているだけに、志摩子はすぐ眠ることを初めから諦めてしまった。
(……あんなこと、言うから)
少しだけ、心の中で祐麒さんに当たってみたりもしながら。
夜の静寂に身を委ねながら。志摩子はただ、ひっそりと物思う。
過去のこと。映画のこと。キスのこと。
メールのこと。電話のこと。『好き』のこと。
あるいは……少しだけ、未来のことも。
過去を振り返るのは恥ずかしく、未来を想うのは倖せで。
たった半日。それだけの、親密な時間。
でも、誰かを愛することに時間なんて関係ないのだと。
――そんな、映画のようなことを、今は真面目に信じられた。
いちど心に許してしまえば、愛してしまう気持ちは止め処ない。
まして相手にまで許されてしまうものなら。
急速に傾いでいく心を、どうして抑えることなんてできるだろうか。