■ 16−遣らずの雨

LastUpdate:2007/09/17 初出:web(mixi)

 待つことは嫌いではない。
 それでも、さすがに好きな人を待つ時間は、少しだけ落ち着かない。


 リリアンから少しだけ離れた公園。志摩子はそこで、祐麒さんが来るのを待っていた。
 待ち合わせの約束は、志摩子がしたのではない。あのあと祐巳さんが祐麒さんに電話を掛けて、約束を取り付けてしまったのだ。会いたい気持ちは確かに志摩子にもあったのだけれど、昨日の今日でこうしてお会いできる機会を得られるだなんて思っていなかったものだから。自然と志摩子の心は高鳴りを覚えてくる。
 空にはもう橙が薄く染まり始めていて、だからお会いできたからといってそんなに長時間一緒に居られるわけではないけれど。それでも、お会いできるというだけで自然と心は張り詰める。
 偶然お会いしたのは、昨日のこと。一日のお付き合いして、キスをしたのも昨日のこと。好きと気持ちを告げたのは……辛うじて、日付としては今日のことだったかもしれない。
 短くて、けれど濃密な時間。僅かな時間だけの触れあいで「好き」という気持ちを抱くことは、ともすれば「一時の感情」と言い切れるようなことなのに。
 けれど志摩子の心に、告白したことを後悔したり、迷う気持ちは僅かにさえありはしない。どうして心がこうも自然に、彼のことを好き、と理解できているのか。志摩子自身にさえ、はっきりと判るわけではない。


「――すみません、お待たせしてしまいましたか」
 掛けられる声。相手を確かめるまでもなく、それが祐麒さんだと判る。
「いえ、私も先程来たところですから」
「それなら、良かったのですが……」
 息をせき切った祐麒さんの様相から、走ってきて下さったことが簡単に見て取れた。そのことを嬉しいとも思うけれど、どちらかといえば申し訳ない気持ちが志摩子には先に立つ。
「すみません、無理にお呼び立てしてしまって」
「いえ、そんな」
 息を整えながら、祐麒さんはぶんぶんと首を左右に振る。
「……それに、俺を呼んだのは志摩子さんじゃなくて、祐巳たちでしょう」
「それは、そうなのですが……」
 志摩子も会いたいと思っていた。祐麒さんを呼び立てようとする祐巳さん方の意見を、志摩子は強い意志で止めることをしなかった。だから祐麒さんをお呼び立てしたことは、そのまま志摩子の意志でもある。
 志摩子がその気持ちを祐麒さんに伝えると、祐麒さんははにかみながら、
「なら、俺と同じですね」
 そう言ってくれて。
 彼の言葉が、志摩子にはとても嬉しく心に届いてくる。
「でも……祐巳はきっと、間違ってないんですよね」
「え?」
「俺、志摩子さんと次にお会いできるのは、たぶん早くて週末の土曜日か、日曜日ぐらいになると思っていたんです」
 そう口にする祐麒さんに、志摩子は素直に頷く。
「私も、そう思っていましたが」
 まだ週末にお会いする約束をしていたわけではなかったけれど。それでも週末になればまた祐麒さんに会えると、なんとなくそんな風に志摩子は考えていた。
「ですよね。――でも違うんですね、本当はいつだって会える」
「そう……ですね」
 確かに、それは仰る通りで。そんなこと、志摩子は一度も考えなかったけれど。
 身近な学校に通っていて、お互いに連絡を取り合う方法もある。本当はお互いの都合さえ悪くなければ、短時間だけでも会うことはできるのだ。
「ただ、ここでは誰かに見られる可能性があるから、志摩子さんが困らなければ良いのですが」
「私は全然――」
 むしろ噂になったりしたなら。
 それはそれで、嬉しいぐらいかもしれないのに。
「祐巳さんに明日、お礼を言わないといけませんね」
「……あんまり褒めると図に乗るんで、程ほどにしてやって下さいね?」
 祐麒さんはそう言いながら苦笑してみせて。
(ところで、気付いていますか?)
 同時に、小さな囁き声でそんな風にも訊いてくる。
(……気付くって、何にでしょう?)
 なんとなく志摩子も声を窄めるようにしながら、祐麒さんに訊き返す。
(祐巳と、由乃さんと、他に何人か。……志摩子さんの左側の茂みの向こうに)
(え?)
 一瞬何のことか判らなくて。少ししてから、ハッと志摩子は気付く。
 祐麒さんが示す方向をちらりと伺えば、確かにそちらにはたっぷり五・六人は隠れられるだけの茂みがあって。志摩子には気配も何も全く感じられないのだけれど……何しろ待ち合わせの場所を決めたのは他でもない祐巳さんと由乃さんだったのだから、もし祐麒さんの言う通りに隠れていたとしても不思議ではないように思えた。
(どうします? 俺が叱っても構いませんが)
(……いえ、そこまでは)
 覗かれていることは、やっぱりちょっと居心地が悪いけれど。それでも祐麒さんと出会う機会を下さった祐巳さんたちには、まだ感謝の気持ちのほうが余程強く感じられるから。

 

 ――ああ、でも。
 覗かれていると判ると、志摩子の心にも幾許かの悪戯心が沸いてきてしまう。

 

(あの、祐麒さん)
(はい?)
(その……変なお願いをしてしまっても、宜しいでしょうか)
 少しだけ訝しげに祐麒さんは首を傾げるみたいにしながら。それでも志摩子に(はい)と頷いて答えてくれる。
(いつかの電話で仰った祐麒さんの言葉を……もしお嫌でなければ、いま実行しては頂けませんでしょうか)
(電話の、言葉?)
 祐麒さんはさらに首を傾げて、考え込むような素振りをしてから。
(……まさか)
(はい、その「まさか」だと思います)
(で、ですが、しかし、それは……)
 初めて見る、祐麒さんの焦りの様相。

 

  『――次にお会いしたときには、俺からもさせて下さいね』

 

 いつか祐麒さんが電話の切り際に志摩子に言ってくれた台詞。
 たぶんその言葉は、祐麒さんが思っている以上に志摩子にとっては心の深い拠り所で。
(もちろん祐麒さんがお嫌でしたら、無理強いしません)
(俺は構いませんが、ですが……)
(もちろん、私も構いません)
 なおも躊躇う祐麒さんに、志摩子は言う。
(こう見えて私……独占欲が強いのかもしれません)
 私などより祐巳さんや由乃さん、乃梨子や瞳子ちゃんのほうが余程魅力的だと。卑屈ではなく、純粋な気持ちから志摩子はそう思う。
 それだけに……彼の心が動かないだろうかと、不安に思う心がある。
 もちろん祐麒さんから「好き」と言って頂けたことを、疑うわけではない。だけど……志摩子が他の方々よりも先んじている物なんて、たった昨日からの一日分程度のリードしかないのかもしれないのだから。
 志摩子がそうした正直な不安を祐麒さんに打ち明けると。祐麒さんはすぐに(そんなこと、有り得ません)と否定してくれた。
(俺が好きなのは、志摩子さんなんですよ……)
(私もそれを、疑うわけではないのです……)
 ただ、私は証が欲しくて。不安に負けない心が欲しくて。
(わかりました。そんなことで、証明できるのなら)
(……すみません、無理強いするみたいで)
(違います、勘違いしないで下さい――キスしたいとせがんだのは、俺のほうからなんですから)

 

 

 ベンチの距離が急速に縮まる。
 今度は、いつかの雨の中とは違って。
 志摩子は目を閉じて、ただ待ち侘びるだけでよかった。

 

 

 

「――ああーっ!!」

 

 そっと優しく触れ合わさる感触に併せて、
 瞼を閉じた見えない世界のどこかで、祐巳さんがこちらに叫び声を上げるのが聞こえた。