■ 19.「素敵な生活」
きっと僅かに二時間もあるかどうか、その程度の時間だった筈だ。彼女がうちを訪ねてくるよりも以前には、彼女のことなんてまるで意識していなかった筈なのに。けれど今のアリスはもう――自分の心に正直なまま、何度でも彼女に『好き』という言葉を伝えられる自信を持つことができる。
(不思議、ね)
恋情って、もっと時間を掛けないと育めないものだと思っていた。始めは友情か何かだった筈の感情が、やがて変質することで初めて生まれ得る感情なのだと思っていたのだけれど。
隣で静かな寝息を立てて眠る天子、その頬にそっとアリスは口吻けてみる。しっとりと滑る天子の肌へと、僅かに自身の唇が触れる――たったそれだけのことで感じることができる、怖いほど倖せな気持ちがあるのだから。この感情の答えが、『恋情』でない筈が無かった。
「……好きよ、天子」
言葉に出してみる。それだけでさえ、少なからず得られる幸せがあるのだから、恋するって凄い。
何度でも『好き』だと言える、最愛の人。その人が、私のことを好きだと言ってくれるのだから――これほど倖せなことがあるだろうか。
疲れで眠ってしまった天子とは対照的に、アリスは目が冴えてしまっていた。それに……目を閉じれば何度でも、穴が開くほど見つめ続けた天子の恥ずかしい場所のこととか、天子の嬌声なんかが頭の中でリフレインしてしまいそうで。眠ることなんて……当分はできそうになかった。
本でも読むことができればいいのだけれど、生憎とベッドから届く場所にそういったものを置く癖は無くて。かといってベッドから起きて抜け出そうとしてしまうのは、隣に眠る天子を起こしてしまうのが怖くてできそうにない。
仕方無しにアリスは、ぼんやりとベッドから近い窓の外を眺めてみる。――といっても、窓から見える景色なんて、見慣れた寂しい森の風景ばかりで。特別感じられることなど、ありはしないのだけれど。
(……こんなに、淋しい場所だったかしら)
そう思ったのに。
けれどこの時だけはいつもと違って、淋しいだけの風景にも少しだけ特別な感慨をアリスに覚えさせた。
鬱蒼とした森の中だし、辿る月の光も弱弱しいとはいえ……改めて見つめてみる森の景色は、酷く色褪せたもののようにアリスには見える。元々人里を疎んでこの森を選び、その中で生きてきたアリスだけれど。おおよそ彩りというものとは無縁の景色は……今更にして思えば、淋しすぎるもののように思えた。
(私はこんな場所で、ずっと生きてきたのね)
住んでいるうちには、決して淋しい場所だなんて思わなかったものだけれど。
どうして……今更になってこんなことを思ってしまうのだろうか。
「……ん」
ふぁ、と大きな欠伸をひとつしながら、隣で瞼を擦る天子。
起こしてしまっただろうか。そう思いながら、アリスは優しく天子の頭を撫でる。
「おはよう、天子」
「んぅ……おはよう、ございます、アリスさん」
まだ眠そうな声で、そう応えてくれる天子がいじらしくて可愛い。
暖かな毛布に包まりながら、隣でただ彼女の体温だけを感じていられる。
裸のまま眠ってしまった彼女だから、いま見えるのは美しい青い髪と、しっとりとした肌だけ。けれど、色鮮やかな服なんか身につけていなくても、言い表せないほどの彩りに彼女は満ちているようにも感じられて。
外の景色に魅入られていた寂しさなんて。一瞬で、どこかに吹き飛んでしまっていた。
「……なんだか、倖せですね」
「そうね」
天子の言葉にアリスは頷く。実際、アリスもちょうどその思いを噛締めていたところで。
冬は寒いのが当たり前。たとえ暖炉を焼べていたとしても、その寒さを総て除くことなんてできはしないのに。
なのに、今はこんなにも温かな。――最上級の温もりと倖せだけが、アリスのすぐ傍にあるみたいだった。