■ 1.「夜深し」
……どうしても今夜は、眠ることができなくて。
半ば諦めの心地で私室を出た鈴仙が、縁側の廊下から空を見上げると、そこには普段はなかなか見ることが出来ないほど澄んだ月が空に浮かんでいて。
今日に限って上手く眠ることができないのは、もしかしたなら『月が綺麗だから』なんて――その程度の理由でしかないのかもしれなかった。
(惜しいのは、それが満月ではないことだろうか)
少し残念な気持ちから、鈴仙はそう思わずにいられない。冬の深すぎる夜闇さえ光輪でぼやけさせる程の眩しい月だというのに、けれどほんの僅かにだけその月は満ち足りていない。鈴仙が今まで見てきたどんな満月よりも、今夜の月は満ち足りた光を湛えているというのに……そのちぐはぐさがどうにも不思議で、不快で。見ているだけで、なんだか胸にもやもやした感情ばかりが降り積んでいくような気がした。
いつもなら、もう随分と前には眠ってしまっている筈の深夜の月。一度眠ろうと努力して布団に入った頃には、まだ雲に隠されていて見えなかった月が、こんなにも綺麗だったなんて――こうして眠れなかったからこそ見ることができた月だけれど、だからといってあまり嬉しい気持ちにはなれなかった。
(……最近は月を見ることが増えたなぁ)
ふと、そんなことを思う。月に住んでいる時には、自分が住んでいる衛星のことなんて気に掛けたことも無かったけれど。こちらの世界に住むようになってからは、こうして眺めては物思いに耽ることが多くなった。
だからといって、帰りたい気持ちがあるわけではない。それどころか、帰りたいと思うような気持ちなんて僅かにさえない。
そうではなくて……こうして月を見つめることで私は、過去の月に住んでいた頃の自分の姿を思い返しては、今この場所に居られる自分の姿を、何度でも見つめ直したいのかもしれなかった。
姫が居て、てゐが居て。そして……この場所には、師匠が居て下さるから。
安寧に委なって見失いそうになる今の果報、そしてこの場所に来て得ることができた総ての幸せを。まだ何一つ持ち合わせてはいなかった頃の自分を思い出しては、何度でも噛み締めていたいだけなのかもしれなかった。
「……あれ?」
思わず驚きの言葉が、そのまま鈴仙の口を突いて出た。
冬の低い夜空に煌めく月。それを見つめながら無作為に縁側を歩いていたのだけれど、その中でふと屋敷の中にまだ灯りが点いた部屋があることに鈴仙は気付いたのだ。
丑三つも近い程の深更。こんな時間に、まだ誰かが起きているとは思えないのに。
我に返ったかのように辺りを見回してみると、さっきまで居たはずの自分の部屋からは随分と離れてしまっているらしかった。もう遠くなった鈴仙の部屋は暗闇に紛れて殆ど見通すことができなくて、頼りない月明かりで見えるのはかろうじて姫様の部屋ぐらいのもの。
灯りが点いている部屋は、姫様の部屋から二つだけ隣で、そのことに気付いて鈴仙の驚きは尚更大きいものになった。
(ここ……師匠の部屋、だ)
暗い中とはいえ、どうしてすぐに気付かなかったのだろう。この屋敷の中で一番訪ねる機会の多い部屋が、まさしくいま鈴仙の目の前にあるのに。
同時にここが師匠の部屋だと理解して、鈴仙の中でひとつの疑問が氷解する。
(……無理をされてないと、いいのだけれど)
そして氷解した疑問はそのまま、鈴仙の中で心配へと姿を変えてしまった。