■ 30.「一夜の虜囚」
にとりの躰の上に覆い被さるように椛が乗り上がってくると、心の緊張はより深いものになる。胸がつまる――これから愛して貰えるのだと思うと、嬉しくて恥ずかしくって息も出来ない。
服に手を掛ける椛の指先は、初めて愛して貰った時にあれだけ手間取っていたのが嘘に思えるほど器用な手つきで、にとりの身に付けているものをひとつずつ容易く脱がしていってしまう。ベッドの上で身体を横たえているのだから、時々こちらからも身体を浮かせたりして協力しているとはいえ、にとりの衣服を全部剥ぎ取ってしまうまでにさしたる時間も掛かりはしなかった。
「今日も、にとりは綺麗だよね……」
椛の言葉に嘘はなく、きっと正直な気持ちからそう口にしてくれている。普段から嘘を吐かず、たまに嘘を吐く時にも挙動や言葉尻で簡単にそれを見抜かれてしまう不器用な椛だけれど、それ故にこうしてかけてくれるお世辞ひとつに至るまで作り物の言葉でないことが判ってしまうし、それだけににとりにとっては余計に恥ずかしい。
もちろん自分の躰を褒めてくれることを嬉しいとは思う。思うけれど……この椛の言葉ひとつにさえ、にとりは未だに慣れることができないのだ。なにしろ言われてしまうだけで心がかぁーっと内側から熱くなって、体温が幾つも上がってしまうみたいな感覚さえあるのだから。
「躰が目的なんだ?」
「うん、もちろん躰も目的だよ」
恥ずかしさを紛らわすようなにとりの軽口も、慣れた口調で簡単にあしらわれてしまう。
普段は会話をしていても聞き手に回ることが多かったりあまり積極的な性格を見せない椛だけれど、こうしてにとりを愛してくれる時には率先してリードしてくれる。牽制や挑発を孕んだにとりの軽口も、こうした時の椛にはまるで通用しなくなってしまう。
リードを取られてしまえばもう、にとりには愛されることを受け入れるしかなくなってしまう。こうした愛され方を、他ならぬにとり自身もまた嬉しく受け入れてしまっている。少し積極的で、求めることに遠慮をしない素直な椛の姿。いつもとはちょっと勝手が違って、一方的に椛のいいようにされてしまうのは少しだけ違和感があったりもするけれど。それも裸のにとりの前でだけ見せてくれる姿だと思えば――嬉しいことでない筈がなかった。
にとりの顎に、椛の指先が幾つか触れてくる。それがキスを求める仕草だと知っているから、にとりは迷うことなく瞼を閉じた。
重ねられる唇。触れるだけのキスだけれど、お互いの唇の形が潰れるほどにその交わりは強い。椛の与えてくれるキスはいつだって力強くて、少しだけ乱暴。でも……そんな乱暴なキスをされるのを、にとりもまた愛している。
乱暴なキスにやられてしまうと、もうにとりは椛に対して軽口を叩くことさえもできなくなってしまう。普段は控えめな椛だけれど、今だけは違うのだ――にとりのことを一方的に愛することができる立場。乱暴なキスはたったそれひとつだけで、にとりから立場を理解させて抵抗の意志を根こそぎ奪い取ってしまう。
「いっぱい、愛してあげるからね」
「……は、はい」
心が期待に満ちる。胸の高鳴りばかりが膨らんで、周囲の音が何も聞こえなくなる。
にとりはただ、やがて肌に触れてくれる少しだけ冷たい指先を待つ。
抗えない、愛して止まない。にとりの躰を唯一、虜にできる指先を。