■ 56.「端書14」

LastUpdate:2009/02/25 初出:YURI-sis

 唇を触れあわせると、たちまち心に温かなものが満ちる。
 恋愛というものは漠然としすぎていて、いまこの瞬間まで、椛にはどうにも意識できないでいたのだけれど。
 相手の心臓の鼓動と、自分の心臓の高鳴り。唇と唇とを触れあわせるだけで、そのどちらも確かに耳にまで届いてくる。熱くなる心と躰に従って、手を繋いで絡ませた指先までがじんわりと熱を帯びてきて。少しだけ寒い夕刻の風が、却って心地良いぐらいだった。
 ――息もできない。長すぎるキスはどんなにも息苦しくて、けれど自分の方からは離すこともできなくて。ようやく相手のほうから唇が離れた後には、ぜえぜえと激しく息を乱してしまう自分の姿さえあった。

 

「椛」

 

 文様の凛とした声は、秋風に乗るかのように。何か綺麗に煌めくものと一緒になって、椛の心に食い込んでくる。椛、と――文様に呼び捨てにして頂くのことが、椛は昔から堪らなく好きだった。
 文様のことを尊敬しているのかといえば、よく判らない。同じ天狗であっても、椛が目指すものと、文様が目指されるものとは比較できない程に離れてしまっているからだ。同様に、自分が文様と親しいのかといえば、それも椛には判りかねることだった。疎遠ではない……が、椛はあくまで文様よりも格下であり『使われる』立場に過ぎないのだから。明確な上下関係で繋がれている傍らで、親しいかどうかということなんて、意識されることさえないのだ。
(なのに、どうしてなんだろう)
 そう、椛は訝しく思い続けてきた日々があった。親友のにとり、あるいは同じ役職を全うする天狗の同僚。どちらから『椛』と呼び捨てにされたとしても、そこに特別な意識を抱いたりなんてことは……当たり前だけれど、全く在りはしない。相応の親しみ、あるいは責任を共有する間柄であるなら、互いを呼び捨てにすることなんてひどく当たり前のことで。特別な意味を孕まない言葉は、もちろん椛に特別な意識を抱かせることもありはしないのだ。
 なればこそ、上司から――呼び捨てにされることも同様であるはずだった。上司である文様が椛を呼び捨てにする。それはあまりにも当然のことであって、勿論そこに特別な意味など籠められていようはずもないのに。
 ……なのに、どうしてだろう。名前を呼んで頂くたび、椛の心の深い場所では理由もなく震えては熱を生む何かが潜んでいた。心が少し熱くなって、何度でも同じ言葉を掛けられたくなる――例えるなら、それは歓喜の感情に似ているようにさえ思えた。

 

「文、さま」

 

 一度は離れた唇を、今度は椛のほうからも重ね返す。
 その時には意味不明だった感情が、今はこんなにも心の裡でひしめき合っている。あの時には理解できなかった、歓喜に似た感情――それはまさしく、恋情に他ならないものだったのだ。
 つい先程、文さまから唇を重ねて頂いた瞬間まで、まるで理解できなかった感情が――今はこんなにも明瞭で、怖い程に理解できてしまう。文様から名前を呼ばれれば心が熱くなるし、肌に触れられてしまえばそれだけで、触れられた場所は躰の深い場所からじんわりと熱を帯びるかのよう。それらは総て――文さまに対して、他ならぬ椛自身が特別な想いを抱いていればこそなのだ。
 押し当てるような口吻け。不器用な椛にはきっと上手くやろうとしても無駄だから、せめて力強く自分の想いを伝えるようなキスしかできない。
 特別ではない言葉に喚起された私が居るから。せめて私のほうからは、特別な精一杯の想いを籠めたキスで伝え返したいと。不器用なりに――椛はただ、真摯にそう想うのだった。