■ 86.「端書23」
口吻けると、それだけで何もかも忘れそうになった。
柔らかな感触と共に巡る意識の中には、そうさせるだけの特別な感情が入り交じる。心までもかっと熱くさせられそうな相手の吐息と、唇を通じて直に伝わってくる思考までが蕩けさせられそうな深い熱。その二つが、普段ならキスぐらい笑ってやり過ごせそうな美鈴から、冷静さや判断力を奪い尽くしてしまっていた。
唇同士を触れあわせる。それだけのことで、こんなにも心は相手に夢中になってしまう。美鈴の眼前でくすりと笑むリトルには、あんなにも余裕があるのに。美鈴には、僅かばかりも心に余裕を生むことはできなかった。
「案外、お子様なんですね。美鈴さん……」
「……あうう」
反論したいとは思うのに、現状が現状なけに言い返すことができなかった。上手い言葉を思いつけばまた別なのかもしれないけれど、それを考え浮かべるだけの思考はもう、美鈴に残されてはいないのだ。
実際、自分でもこんなに初心だったのかと、少なからず自嘲の気持ちが生まれているのも事実であるぐらいなのだ。キスをしたことは確かに今まで無かったけれど、それは美鈴が今まで単純にそうしたいという意志を抱くことができなかっただけの話で。恋とか愛とか、そうしたもの自体に興味を持つことができなかったし、そんな自分を想像することもできなかった。
恋愛も対象がいなければ、求める気持ちも生まれないのだと思った。性的な欲求を躰に覚えることがないと言ったら嘘になるけれど、相手を見出せない欲求は放っておけばいずれ鎮まった。
けれど……今はどうだろう。こんなにも私は、リトルに対して心を乱されていて。彼女から齎される口吻けのひとしずくにさえ、こんなにも儘ならなくなっている。恋愛に興味を抱けなかった頃の自分なら、きっと誰にキスをされても心を揺らされることもなかった筈なのに。こうしてリトルによってその感覚を呼び起こされてしまった今の美鈴には、到底抗えるものではなかった。
「……すみません、傷つけてしまいましたか?」
美鈴の顔を覗き込むようにして、申し訳なさそうにリトルがそう囁く。
「ごめん、そうじゃなくって。ただ……」
「ただ?」
「ええと、ただ……私は自分が思ってる以上に、リトルのことが好きなんだなあって。そう、改めて思っただけだよ」
美鈴がそう答えると、ぱあっとリトルは顔を明るくさせてくれる。
そんな彼女の反応一つでさえ、美鈴の心はたちまち温かさを生む。彼女のことを愛しいと想う気持ちが、彼女の笑顔をあたかも自分自身の幸せであるかのように感じさせる心を生む。
恋するという感情がが、これほど特別なものだとは知らなかった。自分自身の心を制御することは、心の鍛錬において重要なひとつの指針であるはずなのに。こうして彼女を思うだけで儘ならなくなる不安定な心を、初めて美鈴は好ましく思えていた。