■ 88.「緋色の心」
「……へえ、衣玖さんが、ねえ」
天子がそうした経緯を話すと、アリスさんは少し驚いたような表情をしてみせる。
「意外ですよね?」
「ええ、ちょっとね。真面目な人だと思っていたから」
実際、真面目なのだ。天子が何かを相談する時には真剣に話を聞いてくれるし、そうでなくても普段から天子の教育係として、衣玖は真面目にその勤めを果たそうとしてくれている。
そうした真面目さは、きっと衣玖の性格本来のものなのだろう。他にも……例えば、衣玖は自分に対しても真面目で。えっちな小説を読むことで、普通の小説では得られない特別な何かの感情に迫られる心地良さを何度となく天子に伝えてくることがあった。えっちな気持ちになることで得られる興奮があって、小説の中に登場するキャラクターに思いを馳せて、責められる自分の姿をそこに投影していると。そう衣玖から告白されるたびに、天子も同じ気持ちだったから強く同意してきたのだった。
「……本当に、アリスさんの仰る通り、衣玖は真面目なんです。真面目すぎるから、だから……ある日、衣玖は私にひとつのお願いをしてきたんです」
「お願い?」
「はい。私に……小説のキャラクターと、同じことをして欲しいって」
切にそう願う衣玖の姿を見て、天子は胸が詰まる思いがしたのを覚えている。小説を読むうちに、何度となく衣玖と同じ気持ちになることもあったからだ。
希う衣玖に、答えてあげられるものなら答えてあげたいと。そう強く思う気持ちさえ、天子の心には溢れていたのだけれど。
「それで天子は、どうしたの?」
「私は……衣玖の求めるものに、答えてあげられませんでした」
官能小説が描き出すのは、殆どの場合愛してもいない相手に犯され蹂躙されていく課程のものが多く。まして衣玖の書架にある本は……陵辱や調教といった、そういった手合いのものばかりだったから。天子もそうしたシチュエーションに対する憧れを抱かなかったといったら、嘘になるけれど。
けれど……衣玖からそう望まれたことで、天子は気付いたのだ。天子は確かにこうした行為に憧れを持っている。誰かに苛められたいという願望も、誰かの所有物として恣行的に愛されたいという願望も持ち合わせてはいる。だけど、それでも……天子は自分が愛している人意外を、その相手として求めたくはないと思えたのだ。
その意識が心の裡で定まった瞬間、強く天子に意識されたのは――アリスさんの姿だった。もしも誰かのものになれるのなら、もしも誰かのために尽くすことを許されるというのなら。他の誰でもなく、ただアリスさんだけのものになりたいと――この時、天子には疑いようのない程の強い気持ちで信じることができたから。