■ 3.「泥み恋情01」
幽々子様の場所を離れることが多くなった私は、従者としては以前より不的確なのかもしれないと思う。もちろん急事の際にいつでも白玉楼に駆け付けられるだけの備えは常に意識してあるつもりだけれど、幽々子さまほど力を持つ方ともなれば、そのような変事などそうそう起こることではない――というのも、また真理ではあった。
そのせいだろうか。常に白玉楼という場所から離れずにいままで生きてきた妖夢へ、いつの日か幽々子様は『少し、ここから積極的に離れてみるようにしなさい』と告げられたのだった。
言われて初めは、意味が判らなかった。暗に暇を告げられたのかとさえ、妖夢には思えた。けれど……こうしてあてもなく人里を巡るようになって、幽々子様がそのように薦められた意味がようやく妖夢にも判った気がした。
多くの人が犇めく人里には、決して白玉楼では感じることができないものがたくさん溢れているからだ。安穏とした死者ばかりで溢れている白玉楼には存在しない生の活気が、人里には溢れていて。今までそうしたものに触れることが無かった妖夢にとって、ここで初めて知り、学ぶべきことはとても多いように感じるのだ。
「……あれ、妖夢さんではないですか?」
不意に、そう話しかけられた声が考え事に夢中になっていた妖夢を現実へ引き戻す。見ればそこには、一羽の鴉を肩に乗せカメラを携えた天狗が、少なからず驚いた様子で妖夢を見つめていた。
「お久しぶりです。本日は人里の取材ですか?」
「いえ、ただのプライベートです。……私からすれば、あなたがお独りで人里をぶらついているほうが驚きなのですが」
「……ああ、それはそうですよね」
言われて、妖夢も苦笑するしかない。今までだって人里に来ることは少なからずあったけれど、あくまでそれは買い物を済ませる為だけであって、余計な寄り道など一切せずに食料だけを買い込んで買えるばかりのものでしかなかったから。
そんな私だったのだから……確かに、こうして広場で佇んでいる姿を見かけた文さんが、妖夢のことを訝しく思うのは自然な反応なのだろう。
「最近はこうして、人里であてもなく時間を過ごしているのです」
「それは、幽々子さんに言われて、ですか?」
「……はい。幽々子様が『積極的に白玉楼から離れるようにしなさい』と仰ったので」
どう答えるべきか妖夢は一瞬だけ逡巡したけれど、結局は素直に答えてしまう。相手にカメラを構えず、メモを取る姿勢を見せない時の文さんは秘密は守るし、単純に好奇心からそう聞いているに過ぎないのだと知っているから。そうした相手に嘘を吐く必要なんて、どこにもないのだろうから。
「ふふっ、幽々子さんにそう言われたのでしたら、最初はクビになったと勘違いしたのではないですか?」
微笑みながら文さんはそう言って、自分の首の辺りをトントンと手刀で叩くような仕草をしてみせた。
あっさり看破されたことが恥ずかしかったけれど、妖夢は正直に頷いて肯定の意を示す。
「……わかってしまいますか」
「はい、わかってしまいますね。妖夢さんは少し堅物なところがありますから」
「堅物……。そうですね、最近自分はそうなんだなあと、少し思うようになりました」
人里には活気が溢れていて、ここに住まう人は誰もが陽気で。そうした人たちの中に身を置いていると、否応なしに自分は何てつまらない人間なのだろうと意識させられてしまうような、そうした感覚があるから。
生真面目な堅物であることは、必ずしも美点ではない。もちろん他人と付き合う上で誠意は必要だけれど、それは融通が利かないという堅物さを孕まなくてもよいことだから。
「お暇なようですし、良ければ甘い物でもご一緒しませんか? 私としてももう少し妖夢さんとお話したいですし」
「……甘い物、ですか?」
「ええ、わざわざ人里まで来て、食べずに買えるのは勿体ないほどのお店があるのです」
文さんはそれだけ言うと、返事を待たずに「さあさあ」と妖夢の手を引っ張ってしまう。
そうした文さんの姿を見て、文さんは積極的に人里の中で楽しもうとしておられるのだなあと妖夢は理解する。幽々子様は積極的に離れなさいと仰ったけれど、まだ身の置き方の判らない妖夢に取って人里に来ることは決して積極的な行動では無かったのだけれど。
繋がれた手から感じる、温かな感触。こうして手を引っ張って貰えることに、少なからず妖夢は嬉しさを感じている。
「文さん」
「はい、何でしょう?」
「宜しければ今日だけでなく、これからも色々と人里の良さを教えて頂けませんか」
心底人里を楽しもうとする文さんの笑顔に、妖夢は憧れずにはいられない。この人の傍に居ることで、私は多くのことを学べる気がするのだ。
「……あはっ、ええ、もちろん構いません。連れ回しちゃいますから、覚悟しておいて下さいね!」
ぐいぐいと妖夢の手を引く力強さに。
ただ身を任せながら、妖夢はそこから伝わる温かな体温に感じ入るだけでよかった。