■ 70.「泥み恋情23」
たったひとつの過去の罪が、今でもボクを縛り続けている。
けれど今では周囲にそれを知っていてなお、許してくれる友人がたくさんいるからだろうか。同じ過ちを繰り返さないと決めたボクの中ではいつしか罪の意識も薄れ、例えば眠る時になって瞼の裏で悔恨の思いにとらわれたり、夢に見ることも無くなっている。
代わりに、罪以上に厄介なものがある。それは、まだ罪を犯したことを悔い続けていた頃のボクに差し伸べてくれた手のひら。あの日に透華が差し出してくれた手のひらは、ボクの罪の総てを知っているにも関わらず差し出されたもので。――救ってくれた透華が居るから、今のボクが居る。初めて会ったあの瞬間には、父の仕事に付け込んでボクを利用とする透華を恨みさえした筈なのに。……今のボクには、その時に恨みを買うことさえ承知の上で救ってくれた、優しすぎる透華のことがちゃんと判るから。
(……好きになるのだって、当たり前のことだったんだ)
気づけば不器用な透華を特別にしか想えなくなっている自分の心を、正直に認めてあげることができる。
たったひとつの手のひらが、今でもボクの心を縛り続けている。
あの日に透華が与えてくれたその手のひらは力強くて、そしてとても温かくて。
今でも――ボクの心を強固に掴んで離さないのだ。
「……あ」
瞼を開いて、初めに飛び込んできたのは窓越しに見える色鮮やかな夕焼けだった。空を染め上げる一色の橙が瞳には随分眩しくて、ようやくはじめは自分が眠ってしまっていたことに気づいた。
徐々に周囲が見渡せるようになってさらに気づけば、そこは部室ではなく自分の教室で。ホームルームが終わったあとずっとこの場所で眠ってしまっていたことを今更ながら理解して、我ながらはじめは情けなくなる。
教室の机の上で両腕を枕にして眠っていたみたいだけれど、背中を回した鎖に繋がれている両腕にはちょっと辛い格好だったらしく、両腕の手首には鈍い痛みのようなものさえ感じてしまう。
(だから、あんな夢を見ちゃったのかな)
無理をさせて痛む手首をさすりながら、はじめはそんなことを思う。
透華が与えてくれた『手品をしないため』の鎖。屋敷でメイド仕事に従事している時間以外にはいつも見に付けているこの鎖を――はじめがどれほど特別だと思っているか、透華はきっと知らないのだろう。
この鎖は、ボクが透華のものであるという証に他ならなかった。罪の意識に苛まれて自分を許せなかった過去のボク。それを、はじめの代わりに許してくれたのは透華だった。透華ははじめの総てを許して、そして居場所さえも与えてくれて。……ボクは、透華の所有物になることで生まれ変われたのだ。
「透華に、会いたいな……」
漠然と、そんな想いが口をついて出る。
放課後になれば先ず部室に行くのが当たり前なのだし、いまこの場所にいるのがおかしいことで。眠気に負けて眠っちゃうぐらいなら、いっそ部室に行ってから眠ってしまえばよかったのだ。……そうすれば、目が覚めてこんなにも透華に会いたい気持ちに苛まれることもなく、きっとすぐに透華を視界に捉えることができたはずなのに。
「――私に会いたいなら、部室に来てから眠ればいいでしょう」
はじめの後ろから掛けられた、聞きなれた声。まさしくはじめが思ったことを代弁するその声は、一瞬まだ寝惚けているが為に聞こえる幻聴か何かの類ではないかとさえはじめには思えた。けれど静かすぎる夕暮れの教室で、疑うことさえ出来ないほどはっきりと聞こえたその声が――幻聴でなど、ある筈が無い。
「透華、どうして」
「どうしてですって!? それは、あなたがっ。……はじめが部室に来ないから、でしょう」
はじめが振り返って透華の姿を見確かめると、透華は少しだけ照れくさそうに目を逸らしながらそんなことを言ってくれる。
(……探して、くれたんだ)
部室に来ないから心配して、透華がボクを探してくれたのだと思うと。……嬉しくて嬉しくて、たちまち涙がはじめの瞳からは溢れてきてしまう。
透華にバレないように、寝惚眼をこするふりをしてはじめはそれを必死に拭う。心配してきてくれた透華を、泣いてしまったりしてこれ以上に心配させるようなことはしてはいけないから。
「透華」
「な、なんですの……」
そっぽを向いているのをいいことに、透華の頬にそっとはじめは口吻けてみる。
柔らかな頬の感触を唇に感じて。あのときの手のひらと同じぐらいに温かな熱を、口吻けた先から確かに感じ取って。改めてはじめは、透華を好きになっている自分に胸を張れるような想いがした。