■ 78.「泥み恋情31」
田畑ばかりの開けた視界の中であるのに、宵闇に紛れた電車はある程度遠ざかるだけでその姿を見確かめることはできなくなった。一段高くなった場所にある電車のホームには、開けた土地であるせいか穏やかな風が自然に吹き付けてきて、先程気づかされた寒さをより強く美穂子の身体に呼び起こさせてくる。
(こんな場所で、待っていて下さるなんて)
それを思うと、申し訳ない気持ちにさえなる。美穂子が突然『会いに行きます』だなんてこと言わなければ、上埜さんがこうして寒い想いをすることも無かっただろうに。
「着いたら電話しますから、上埜さんはご自宅で待って下さって良かったのに……」
美穂子がそう言うと、上埜さんは「ははっ」と可笑しそうに笑い飛ばしてみせる。
「私に会いに来てくれる人が居るのに、待ってなんてらんないでしょ」
「ですが、何もこんな寒い場所で待たなくても」
「私だって、一刻も早く逢いたかったんだ。……それでも、待つのはいけないことなのかな?」
上埜さんのほうから逆に、そう訊ね返されてしまう。
(狡い……)
そう、思う。
そんな風に言われたら、もう美穂子には何も言えなくなってしまうのに。
「……私を、その名字で呼ぶんだね」
「あ、ごめんなさい……。つい、昔の癖で」
「別に謝ることじゃないよ。私も『上埜』って名字は嫌いじゃないんだ」
どうして名字が代わってしまったのか、その理由を知りたいとは思う。
けれどさすがに、こんな時に直接理由を訊ねてしまえるほど無粋ではいられない。
「すみませんでした。えっと『竹井さん』と、お呼びすることに致しますね」
「ううん、『久』で。今の名前も好きだけれど、福路さんには名前で呼んで欲しいかな」
「……私なんかが名前でお呼びしても、よろしいのでしょうか」
あまりに上埜さんが、簡単にそれを許してしまうものだから。なんだか却って美穂子のほうが緊張してしまう。
出会った時の印象が強すぎて。また、出会った時から少なからずずっと想ってきただけに、彼女に対する印象は『上埜久』としてのほうが強い。竹井さんとお呼びするのには若干の違和感を感じないでもないけれど……だからといって、彼女にしてみればさほど印象にも残っていなかった私に、名前で呼ばれるのは嫌ではないのだろうか。
「ええ、私が自分から望んでいることなんだから。『上埜』も『竹井』も、どっちの名字も好きだけれど、私は自分の名前が一番好きだから。だから、福路さんが嫌じゃなければ『久』って呼んで欲しいな」
「あ、はい。え、えっと……久さん」
「うん、ありがとう」
久さん、という名前は。とても彼女らしい素敵な名前だと美穂子には想えて。
同時に美穂子にとってもこれほど久しく思い続けてきた相手だけに。その名前を呼ぶことが許されるのは、この上なく幸せを感じられることでもあった。