■ 96.「泥み恋情48」
肌に張り詰める恥ずかしさと緊張感、それが居心地が悪くもあり、同時にどこか嬉しくもある。こうして霊夢さんと実際にベッドを共にして改めて思うのは――躰を重ねて愛し合うということが、本来はとても野蛮な行為なのだという実感だろうか。何しろ他には決して誰にも見せられないような恥ずかしい格好を、愛する人の前でだけは惜しげもなく晒さなければならなくて。それもただ裸を晒すというだけではなく、躰の中でも最も恥ずかしい場所に触れることさえも許さなければ成立しないというのだから大変な話だ。
ともすれば狂気的な行為とさえ言えるのかもしれないそれが、けれど恋愛の延長線上として当然のように存在するのだから不思議な話だった。世の中には愛し合いながら躰を求めない人もいるらしいけれど……やっぱり多くの人が愛する人へ『そうした行為』を求めたいと思っているのも事実で。同時に『求められたい』とも思うのだから……本当に、不思議な話だと思う。
男女の間であれば、まだ生殖活動という大義名分から言い訳も立つのだろうか。――だとするなら、女同士でありながら当然のようにお互いとも性愛を求めたがっている私達は何なのだろう。早苗も、そしておそらくは霊夢さんも、二人ともが当然のようにお互いの躰を求めたり求められたりすることを許し合っている。相手を愛する心が自然に導くこの衝動は、何の為のものだろうか。
「幸せすぎて、気がおかしくなりそうだわ……」
早苗の躰を優しく撫でながら、そう言って下さる霊夢さんがいる。確かにそう――早苗もまた、こうした性愛行為に途方もない幸福感の余りを感じずにはいられないでいた。何の為に存在するのかさえ判らない野蛮な求め合いを前にして、けれどこれからそれを甘受できる喜びに心が震えて、幸せな気持ちばかりを生み出している。
不思議と言えば、どんなにも不思議。けれど、誰かを愛してしまうという気持ちそのものさえ、突き詰めれば不思議ばかりが溢れているものであるはずだから、そういうものなのかもしれなかった。――大事なのはきっと、そこに幸せを感じるという事実そのもので。この曲げようのない程に確かな幸福感を素直に求めること、それが生きる幸せを謳歌する為に大事なたったひとつのことでさえあるのかもしれない。
「私も……幸せです。これで、霊夢さんのものになれるのですから」
躰を重ねることは証になる。
愛される快楽も痛みも、全てが愛する人と繋がれた証になる。心と体の全てを委ねて愛し求め合って初めて、きっと得られる確かなものがあるはずだから。もしかしたら、こんなにも証左を求めたがる一途な心が、衝動を伴わせながら性愛へと導いていくのだろうか。